バイブル・エッセイ(842)本当の幸せ

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 本当の幸せ

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」(ルカ6:20-26)

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」で始まる、イエスの説教が読まれました。貧しい人、飢えている人、泣いている人たちこそ幸いであると、およそわたしたちの常識と反対のこと説くこの箇所は、人間の幸せとは何かを、改めてわたしたちに問いかけているように思います。
 幸せとは一体何なのでしょうか。今年わたしは48歳になりますが、48歳というのはわたしの父が亡くなった歳で、近頃、父のことをよく思い出します。農家の長男として生まれた父は、とても不器用で、無口な人でした。農業高校を出た後、家の後を継ぎ、畑に温室を建てて園芸農家を営んでいました。花作りは大変な仕事で、朝は5時に起きて水やりをし、一日中、温室で仕事に精を出し、夜はビールを1本飲みながら簡単な食事をして寝るというような生活をしていました。服装はいつも作業ズボンに地下足袋。背広を着るのは年に数回だったでしょう。農家の性質上、休みの日はありません。何年も、何年も、少なくともわたしが覚えている十数年の間は、毎日、まったく同じことの繰り返しでした。そして、最後は心筋梗塞で急に死んでしまったのです。
 それでも、うちの父は幸せだったのではないかと思います。質素な生活ではありましたが、それに不満を言うこともなく、日々黙々と与えられた使命を果たす。そんな自分の人生に満足しているように思えたからです。花が好きだっただけでなく、育てた花を、たくさんの人たちが喜んでくれることも生き甲斐のようでした。「貧しい人は幸い」とイエスが言うときに、その貧しさは、物理的なものより心のあり方を指していたように思います。思い上がって贅沢な生活をしないこと。人と自分を比べて争わず、与えられた自分の使命に満足すること。それこそが、心の貧しさだと言っていいでしょう。「神の国」はそのように生きる人のものであり、そのように生きる人はすでに「神の国」を生きているのです。うちの父は、キリスト教を知りませんでしたが、正しく生きた人であり、実質的には「神の国」の民だったのではないかと思います。
 あらゆる思い上がりや、高望みは、幸せから、「神の国」からわたしたちを遠ざけるということも、心にしっかり刻みたいと思います。わたしたちは、「幸せになりたい」と思いながら、逆のことをしてしまいがちです。幸せになるために富を求め、結果として傲慢になり、たくさんのものを手に入れても心が満たされなくなる。他人のものを、奪ってでも手に入れたいと思うようになる。自分より貧しい人たちを見下すようになる。そのようにして、幸せになろうとして、逆に不幸になってゆく人が多いのです。
「富んでいるあなたがたは、不幸である」という言葉は、わたしたちに向けられたものかもしれません。この説教をゆっくりと味わい、もう一度幸せとは何か、自分は何を目指して進んでいるのかを確かめたいと思います。