バイブル・エッセイ(824)二人は一体


二人は一体
 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:2-9)
 「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」とイエスは言います。互いに愛し合い、神さまの愛の中で一つに結ばれた二人は、相手の体が自分の体であるというくらいに堅く結ばれている。もはや切り離すことはできない、ということでしょう。夫婦の絆ということが、今日の聖書箇所のテーマだと思います。
 二人が一体であることの根拠は、神が人を「男と女とにお造りになった」ことに求められます。男と女は、もともと一つの体であったものが切り離された。だから、一つの体に戻るのが自然だということでしょう。もっと言うならば、男と女は、一つに結ばれたとき、人間が男と女に別れる前の姿、人間としての完全な姿に戻ると言ってもいいかもしれません。互いに愛し合い、「相手を自分のことのように愛し合う」絆が二人のあいだに結ばれるとき、二人は人間として完成するのです。
「一体」という言葉からは、まず身体的な意味での一致が連想されるかもしれませんが、もっと重要なのは心の一致ということだと思います。二人が一体であるというのは、相手の身に起こることを、そのまま自分に起こることとして受け止める。相手の喜びを自分の喜びとして喜び、相手の苦しみを自分の苦しみとして苦しむということでしょう。互いが互いを思いやり、労わることの究極の理想が、一体という言葉に込められていると思います。
 では、結婚しない人はどうなるのか。一生、真実の愛を知らないまま、不完全な人間として終わるのでしょうか。だとすれば、わたしたち神父はとても不幸だということになりますが、そうではないと思います。神父の場合は、結婚式ではなく叙階式によって「教会と結ばれる」と言われます。「神の民」である教会を、常に自分自身のこととして考えるほど深い愛で結ばれることで、神父も完全な姿になってゆくのです。結婚しなかったとしても、誰かと深い愛で結ばれることによって、わたしたちは人間本来の姿に戻ってゆくのではないかと思います。
 絆を守るために何より大切なのは、相手を思いやる心でしょう。一体になるためには、相手の身に起こることを、すべて自分の身に起こることとして受け止めるほどの思いやりが必要なのです。相手に対して初めに抱いた愛を忘れず、二人の愛を永遠のものにできるように祈りましょう。

フォト・ライブラリー(593)キリスト教本屋大賞2018

キリスト教本屋大賞2018

10月2日、東京・大田区の産業プラザで開催された「クリスマス見本市&キリスト教ブックフェア」の中で、「キリスト教本屋大賞」の授賞式が行われました。

プロテスタントカトリックの垣根を越えて、たくさんのキリスト教系出版社がブースを連ねるこのイベント。書店の皆さんが全国から集まり、出版社との直接、仕入れの交渉をします。

クリスマスに向けた主力製品がびっしり並ぶ各出版社のブース。書店の皆さんが、商品を熱心に手に取り、仕入れ交渉をする姿があちこちで見られました。

15時からの一般公開に合わせて、キリスト教本屋大賞の授賞式が行われました。キリスト教本屋大賞とは、キリスト教出版販売協会に加盟する全国のキリスト教専門書店が、過去1年間に刊行された本から「売りたい・お勧めの本」を投票形式で選ぶ賞です。

今年の大賞は、なんと『こころの深呼吸〜気づきと癒しの言葉366』(教文館刊)。わたしが書いたものを本にしてくださった出版社の皆さま、本を書店まで運んでくださった取次の皆さま、本を販売して下さった書店の皆さま、そしてすべての読者の皆さま、本当にありがとうございました。

推薦文を書いてくださった大阪キリスト教書店の上田玲子さんから花束を頂きました。推薦文は、このような内容でした。
「聖書の言葉やキリスト教独特の表現は一切出てこないのに、日々たった1ページ、しかも限られた文字数の中でこんなにも心があったまり『神さまの愛』なるものをめいっぱい感じられる本を、他に知りません。」
【お知らせ1・NHKラジオ『宗教の時間』】

渋谷のNHK放送センターで、NHKラジオ『宗教の時間』の収録をしてきました。11月4日8時半から放送予定。テーマは「マザー・テレサに導かれて」。「NHKラジオ らじる★らじる」のホームページからお聞きになることもできます。
https://www.nhk.or.jp/radio/
【お知らせ2】

11月下旬に、教文館から新刊『始まりのことば〜聖書と共に歩む日々366』が発売されます。「聖書を読んでみたいけど、全部はちょっと難しい」、そんな方にぜひお勧めの1冊。どうぞよろしくお願いいたします。

バイブル・エッセイ(823)本当の目的


本当の目的
 そのとき、ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。(マルコ9:33-37)
 イエスの名を使って悪霊を追い出す人を見て、弟子たちは止めようとしました。なぜでしょう。それは、おそらく嫉妬だと思います。エスの弟子でもない人たちが、イエスの名を使って悪霊を追い出し、人々から称賛されているのを見て、弟子たちは嫉妬したのです。そんな弟子たちに、イエスは「やめさせてはならない」と言います。すべての人がイエスの名によって救われることが自分たちの目的なのだから、イエスの名によって救いの業を行う人がいたなら、その人は自分たちの味方。争う必要などないといことでしょう。
 弟子たちの姿は、わたしたち自身にも重なるように思います。たとえばあるとき、ミサの後で、一人の信徒がわたしのところに来て「この間、〇〇神父様のごミサに出てきました。本当にすばらしい説教で、救われた気がしました」という話をしました。わたしは、「それはよかったですね」と応じましたが、内心は穏やかでありませんでした。「じゃあ、わたしのいまの説教はどうだったんですか」と思ってしまったからです。典型的な嫉妬と言っていいでしょう。説教とはそもそも、すべての人の心に神様の愛を届けるため、すべての人の救いのためにするものなので、誰の説教を通してであっても、その人が救われたのなら喜ぶべきでしょう。嫉妬が生まれるということは、やはりどこかに不純な気持ち、人を救うことによって自分が評価されたいとか、神の恵みを独占したいとか、そのような気持ちがあるのだと思います。
 嫉妬は争いを生み、争いは、せっかく始まった神様の救いの業を台無しにしてしまいます。たとえばわたしが、信徒がせっかく称賛している神父様について、「いや、あの人はこんな欠点があるのだよ」などと悪口を言い始めれば、信徒はがっかりして、「なんと心が狭い。キリスト教は、この程度のものなのか」と思うかもしれません。神様がせっかく始められた救いの業が、台無しになってしまうのです。その信徒が救われたのならば、そのことを純粋に喜ぶ。そして、その喜びをさらに大きく育ててゆけるよう協力する。それが神父の役割でしょう。
 神父に限らず、教会ではこのようなことが起こりがちだと思います。「なんだ、あいつは自分ばかりかっこつけて」「あんなやり方はおかしい」などと、自分の評価を求めて教会の中で競い合う。あるいは、他の教派や宗教団体が人助けをこしているのを見て競争心を燃やし、その人たちの悪口を言う。そんなことが起こりがちです。ですが、それは神のみ旨ではありません。わたしたちが互いに協力しあい、一人でも多くの人が救われること、それこそが神のみ旨なのです。人のことを妬んでいる時間があれば、自分にできることを見つけて、それをした方がいいでしょう。すべての救いという目標を目指して、協力することができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(822)争いの原因


争いの原因
 そのとき、イエスと弟子たちはガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)
 弟子たちの間で、誰が一番偉いのかという言い争いが起こったと記されています。家も財産も、すべてを捨ててイエスに従った弟子たちの間で、こんな争いがあるというのは意外なことです。しかも、弟子たちはイエスの一番近くにいて、「互いに愛し合いなさい」と繰り返し言い聞かされていたはずです。それなのに、なぜそんな争いが起こるのでしょう。
 このような争いが起こる原因について、「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」(ヤコブ4:1)ヤコブは指摘しています。誰かが「自分こそ、イエス様の一番弟子だ」などと主張しても、「一番弟子とか二番弟子とか、そんなことはどうでもいい」と思っているなら、腹は立たないでしょう。腹が立つのは、その人の中に、「自分も偉くなって、みんなから尊敬されたい。自分が一番弟子になりたい」という思いがあるからです。争いを引き起こすのは、わたしたちの心の中に隠れた欲望だと言っていいでしょう。自分の中に相手と同じ欲望があるから、欲望と欲望が競い合い、わたしたちの間に争いが生まれるのです。
 そのようなことは、わたしたちの間でよくあることです。「あの人は、自分だけ目だとうとしている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だって目立ちたい」という欲望があるし、「あの人は、モテようと思って気取っている」と人の悪口を言う人の心の中には、「自分だってモテたい」という欲望があるのです。すべての人が目立ったり、モテたりすることはできませんから、当然、欲望と欲望の間には競争が起こり、競争は妬みや怒り、争いを生み出します。これが、人間のあいだに争いが起こる根本的な理由だとヤコブは見抜いているのです。
 「自分が偉くなりたい」と争い合う弟子たちに、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と語りかけます。欲望を剥き出しにし、人を踏みつけてでも自分の欲望を満たそうとするような人は、神様の前で少しも偉くない。むしろ、自分の欲望を捨て、家族や友人、助けを求めているすべての人々に献身的に奉仕するような人こそが偉いというのです。自分を忘れて愛する人こそが、神様の前では一番偉いと言ってもいいでしょう。
 では、どうしたら欲望を捨てられるのでしょうか。そのためには、神様の愛で満足することだと思います。「仲間の間で一番になる必要などまったくない。わたしは、イエス様のそばにいて、イエス様にお仕えできるだけで満足だ」と思えるようになれば、「偉くなりたい」という欲望は自然に消えます。もし、誰かに対して妬みや怒りが生まれたなら、それはまだ、わたしたちが神様の愛で十分に満たされていない証拠。そんなときこそ、心を落ち着け、神様に向かって心を開きたいと思います。心が満たされたなら、乱れた欲望は消え去り、欲望同士が争い合うこともなくなって、この世界に平和が実現するでしょう。わたしたち一人ひとりの心を、神様が愛で満たしてくださるように祈りましょう。

フォト・ライブラリー(592)山陽小野田市・焼野海岸の夕景

山陽小野田市・焼野海岸の夕景

日本夕陽百選の一つに選ばれている、山陽小野田市、焼野海岸の夕景。この日は、太陽が沈んだ直後からとてもきれいな夕焼けを見ることができました。

焼野海岸のシンボルである、舟の帆のモニュメント。皆さん、それぞれの夕暮れ時を楽しんでおられます。

周防灘を行く貨物船。これからどこに向かうのでしょうか。

日没直後の焼野海岸。空の色が反射して、海もオレンジ色になりました。

静かに打ち寄せる波。波の音を聞いていると、心が落ち着いてきます。

オレンジ色に染まった西の空。まるで燃えているようです。

舟の帆のモニュメントと、赤く染まった雲が、芸術的な風景を作り出していました。

教会から車で15分ほどのところにある焼野海岸。壮大な景色と、海をわたる爽やかな風、穏やかな波の音を通して、神様の愛を全身で感じることができる場所です。

バイブル・エッセイ(821)神のことを思う


神のことを思う
 そのときイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:31-35)
 受難と死を予告するイエスを、ペトロがいさめたと書かれています。きっと、「そんなことを言ったら、人から誤解されますよ」などと話したのでしょう。そんなペトロに向かって、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。大切なのは、人からどう思われるかではなく、神様のみ旨にかなっているかどうかだと言うのです。
 行動に迷ったとき、わたしたちはつい、「こんなことをしたら、人からどう思われるだろうか」と考えてしまいがちです。自分がしていることが神様の目にどう映っているのか。神様の前でどんな意味を持つのかとは考えずに、つい身近な人たちからの評価を気にしてしまうのです。たとえば、わたしはいま新しい本の準備をしているのですが、ついつい、「ここはこうしたほうが売れるのではないか」「こんな書き方をした方が、好感を持ってもらえるだろう」などと考えてしまうことがあります。まさに、「人間のことを思っている」状態です。もちろん、読む人たちに配慮することも大切ですが、何よりもまず考えるべきなのは、自分が書いているものが、神様のみ旨にかなっているかどうかでしょう。「この本を出すことは、神のみ旨に適っているのか」、「書いていることは、神様の本当の想いをゆがめていないか。神様の愛を、まっすぐに伝える言葉になっているか」、そのようなことこそ、まず考えるべきことなのです。どんなに世間に評価される本であっても、神様のみ旨にかなわないものであれば、出版する意味がありません。「神様のみ旨にかなったものであれば、神様がすべてをよくしてくださる。何も心配することはない」。そのように考えるのが、「神のことを思う」生き方なのだろうと思います。
 サタンは、わたしたちがとっさに神様のことよりも、人間のことを思うように仕向けます。なぜなら、人間のことを思うとき、わたしたちの心は心配や恐れに取りつかれるからです。「ああなったらどうしよう」「こうなったら困る」と先のことを心配させる。周りの人達に対して猜疑心を抱かせ、苛立ちや憎しみ、争いによってわたしたちを滅ぼす。それがサタンの作戦なのです。この作戦に陥らないために最も有効な対策は、どんなときでも真っ先に「神様は、わたしに何をすることを望んでおられるのだろう」と考える習慣を身に着けることでしょう。神様のみ旨のままに行動し、すべてを神様の手の中に委ねるとき、あらゆる心配や恐れは消え去ります。「神様のみ旨であれば、神様がすべてをよくしてくださる。何も心配がない」と考えられるようになるからです。人間のことを思わず、まず神のことを思う。そのことを習慣にできるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(820)再会の日まで


再会の日まで 
 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マルコ7:31-35)
「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」というイザヤの預言の通り、イエスが人々の目や耳を開いてゆく場面です。いまこのとき、人々に救いが訪れたのです。この喜びは、わたしたち自身の喜びでもあります。いつの日か天国でイエスと出会うとき、イエスはこの人にしたのと同じように、わたしたちの目や口を開いてくださるでしょうし、弱ってしまった足を元通りにし、口に喜びの歌を取り戻してくださるに違いありません。
 敬老の日ということで、20年前に亡くなった祖母のことを思い出しました。わたしの祖母は、40代で夫を事故で亡くし、その後、わたしの父である長男にも病気で先立たれています。晩年は、脳梗塞で体が不自由になり、ベッドに横たわっていることが多かったように思います。わたしは「おばあちゃん子」だったので、祖母についての思い出は尽きないのですが、いまでも印象にはっきり残っていることの一つは、毎朝、仏壇の前で一生懸命に祈っている祖母の姿です。杖をついて仏壇の前まで行き、震える手で線香をあげると、手を合わせて祈り始めます。そして、仏壇に向かって話し始めるのです。まるで、亡くなった自分の息子、わたしの父が目の前にいるように、「お父さん、今日はこんなことがあった。あんなことがあった」というようなことを、延々と1時間以上も話し続けるのです。きっと、祖母には、仏壇から語りかける息子の声が聞こえていたに違いありません。もしかすると、顔さえも見えていたのかもしれません。愛する人たちに先立たれて孤独な日々を過ごす祖母の耳を、目を、神様が開いて、死者たちと話ができるようにしてくださったのではないかとも思います。
 病気や老化によって見えにくくなった目、聞こえなくなった耳が、いますぐ元通りに戻ることはないかもしれません。ですが、天国でイエスと出会うとき、イエスはわたしたちの目と耳を開いてくださいます。そして、わたしたちは、イエス様やマリア様、ヨセフ様、すでに世を去った愛する夫、妻、子ども、友人たちの姿をはっきりと見、その言葉を耳で聞くことができるのです。そのときには、きっと、この地上では見えていなかった相手のよさも見えるようになるでしょうし、地上では照れくさくて口にすることができなかった優しい言葉も聞くことができるでしょう。ここに大きな希望があると思います。天国でわたしたちは、再び力を取り戻した足、腕で、その人たちと再び固く抱き合うことができるのです。
 その喜びは、いますでに実現したとも言えます。もしわたしたちが天国に待っている喜びを信じることができるなら、待っているこの時間も、喜びに満ちた時間になるからです。クリスマスを待っているあいだも、すでにクリスマスの喜びが始まっているのと同じように、もう天国の喜びは始まっているのです。聖書で語られた喜びを、自分自身の喜びとして味わうことができるように祈りましょう。