バイブル・エッセイ(854)弱い指導者

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弱い指導者

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)

 イエスがペトロに向かって、三度「わたしを愛しているか」と問いかける場面が読まれました。なぜイエスは、あえて三回も同じ質問をしたのでしょうか。それはおそらく、ペトロに自分の弱さをしっかり思い出させるためだったと思われます。他の誰よりもイエスを愛していると言いながら、命惜しさにイエスを裏切り、三度もイエスを知らないと言ったペトロ。その弱さを心に刻んで忘れないことが、これからリーダーとなるペトロにとって何より大切なことだとイエスは思っていたのでしょう。
 これは、ペトロの後継者である教皇様のみならず、わたしのような末端の司祭に至るまで、教会を指導するすべての者が覚えておくべきことだと思います。わたしたちはつい、相手より自分を上に置き、優れた者が劣った者を指導するというような態度を取ってしまいがちだからです。例えば、信徒から悩みを相談されたとき、話もよく聞かないうちに、「またですか。だからね、何度も言ってるでしょ。聖書にこう書いてあるじゃないですか。これからは気をつけてくださいよ」といった指導をしてしまうのです。これでは、イエスに従うことにならないでしょう。
 もし自分自身の弱さを知り、自分も神にゆるしてもらった罪人であることを忘れないならば、相手の話を聞くときの目線は、常に相手と同じ高さにあるはずです。何度も聞いて、絶対にしてはならないとよくわかっていながら、それでもつい同じ罪を犯してしまう。自分自身もそうだ、その気持ちはよく分かると相手の弱さにしっかり寄り添い、「それでも、それにも関わらず神さまはわたしたちをゆるしてくださるのです。その愛に信頼して、次の一歩を踏み出しましょう」と語りかけるのが、わたしたちに与えられた使命なのです。教会に求められているのは「強い指導者」ではなく、むしろ「弱い指導者」、自分の弱さを知って遜り、相手の痛みに寄り添う指導者だと言っていいでしょう。
 イエスはさらに、あなたは「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という預言さえ与えています。人々に寄り添いながら生きる人生の最後は、人々のために自分の命を差し出すことだというのです。地上での見返りを求めるなら、それはまったく無駄なことだということでしょう。踏んだり蹴ったりのようですが、「それでもよければ、わたしに従いなさい。それがわたしに従うということだ」と、イエスはペトロに諭したのだと思います。
 これは、神父だけに求められることではないでしょう。信徒同士の関係にも、多かれ少なかれ当てはまることだろうと思います。互いに上から目線で罪を裁き合うのでなく、自分自身の罪深さを省みて相手の弱さに寄り添う。互いに、自分のことを最優先に考えるのではなく、相手のために自分を差し出してゆく。それこそ、すべてのキリスト教徒に求められていることでしょう。ペトロに向けられた三度の質問を、わたしたち自身に向けられた質問として、しっかり受け止めたいと思います。

フォト・ライブラリー(596)津和野・乙女峠まつり2019

津和野・乙女峠まつり2019

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 5月3日に行われた乙女峠まつりの中で、明治政府の迫害によって命を落とした37名の「津和野の証し人」たちの列聖調査開始が正式に宣言されました。

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 朝からたくさんの人々で賑わう、カトリック津和野教会。まもなく、聖母行列が始まります。

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町の中を粛々と進む聖母行列。津和野町でも屈指の大きな行事で、開会式には町長さんも出席しました。

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乙女峠にさしかかった聖母行列。木々の緑が目に鮮やかです。

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長い坂道を登りきって、乙女峠の聖堂が見えてきました。

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乙女峠に到着。かつてここにお寺があり、浦上から流配されたキリスト教徒たちが収容されていました。

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峠では、ツツジが見頃を迎えていました。新緑とのコントラストが鮮やかです。

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ミサの開始。今回は、前田万葉枢機卿様を始め、全国から8名の司教様が参加してくださいました。

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列聖調査の開始を宣言する白浜司教。この日は、全国から1800人以上の巡礼者たちが集まりました。

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行列で運ばれたマリア像。マリア様は、厳しい拷問の中で、証し人たちの心の支えとなりました。

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 行列の先頭で十字架を運んだカトリック宇部教会の中村友希子さん。さわやかな笑顔です。

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津和野の街の中心部にそびえる、カトリック津和野教会。1931年に建てられました。

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教会に隣接する「幼花園」。子ども園として、津和野の町になくてはならない存在です。

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巡礼の途中に立ち寄った道の駅・長門峡。白い藤が満開を迎えていました。

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藤は紫のイメージがありますが、白もなかなかのものです。

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清らかな水が流れる長門峡。心癒される風景です。

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長門峡は紅葉の名所として知られていますが、青モミジも見事です。

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新緑に彩られた山肌。「山笑う」という季語の意味が、なんとなく分かるような気がします。

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 帰り道に、SL山口号と出会いました。「デゴイチ」の愛称で知られるD51型です。美しい自然とすばらしい天気に恵まれた、とても素晴らしい巡礼の一日でした。

バイブル・エッセイ(853)愛の証

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愛の証

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:19-28)

 弟子たちの前に現れたイエスは、「あなたがたに平和があるように」と挨拶しながら、ご自分の手とわき腹の傷を弟子たちに見せたと書かれています。復活を疑うトマスにも、手とわき腹の傷を差し出しました。イエスの手とわき腹に残された傷が、今日の福音の一つの焦点と言っていいでしょう。復活したイエスの体には、処刑のときに付けられた傷跡が、はっきり残っていたのです。その傷は、イエスの弟子たちへの愛を証し、同時にイエスがイエスであることを証する傷でした。
 体が復活するとき、わたしたちはどんな姿になるのかというのは、大いに興味があるところです。例えば、100歳で亡くなった方は、復活のときも100歳の姿なのでしょうか。それとも、50歳の姿なのか、20歳の姿なのか。それによって、だいぶ復活のイメージは変わる気がしますが、実際のところは誰にも分かりません。
 ですが、復活しても消えないものがあると思います。それは、誰かへの愛ゆえにその人の体や心に刻まれた傷、その人の愛を証するような傷です。例えば、わたしは、亡くなった祖父を思い出すとき、まずその大きくてごつごつした手。長年の農作業でガサガサに荒れ、節くれだった手を思い出します。その手は、家族への愛情や彼の責任感、忍耐強さなど、さまざまなものを刻んだ手、彼の人生そのもの証するような手でした。復活して顔の様子が変わったとしても、その手を見れば、わたしは祖父を見分けることができるでしょう。逆に、復活したとき、その手がもし白魚のようなきれいな手になっていたとすれば、「これは、本当に祖父なんだろうか」と疑うかもしれません。イエスの手とわき腹に十字架の傷が残っていたように、復活するとき、わたしたちの体には、誰かへの愛のために刻まれた傷や皺が必ず残っている、とわたしは思います。
 それは、体の傷だけではないでしょう。心にも、愛ゆえに生まれた傷の跡が、必ず残っていると思います。例えば、イエスの心には、きっと弟子たちから裏切られたことが傷となって残っていたでしょう。ですが、その傷は、もはや血を流すような生々しい傷ではありませんでした。弟子たちをゆるすことによって、すっかりふさがれた傷跡。もはや痛みのない傷跡です。折に触れて傷跡が顔をのぞかせ、「お前たちも、昔はこんなことがあったじゃないか」というような言葉がイエスから発せられることはあるかもしれませんが、それは弟子たちを罰するためではなく、弟子たちの心にイエスの愛の深さを思い出させるためなのです。そのような傷跡は、もはや愛の記憶と呼んでいいでしょう。
 わたしたちの体や心に刻まれた傷が、その人の愛を証し、その人が誰であったかを証するように、イエスの体と心に刻まれた傷は、イエスの愛の深さを証しています。復活のイエスの姿を思い浮かべるとき、傷から目を逸らすことなく、逆に傷をしっかりと見つめ、その傷からイエスの愛の深さを思い出すことができますように。

 

バイブル・エッセイ(852)自分を忘れる

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自分を忘れる

 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイ3:1-4)

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とパウロは言います。キリストと共に死んだ以上、わたしたちの命はもはやこの地上にはない。もし自分の命、生きる意味や力を見つけ出したいならば、天に目を向ける以外にないということでしょう。わたしたちの命、わたしたちの本当の人生は、キリスト共に天に隠されているのです。
「自分探し」とよく言います。わたし自身も、若いころ、真剣に「自分探し」をしていた時期がありました。自分らしい生き方、生き甲斐のある人生を、必死で探し求めていたのです。ですが、それはなかなか見つかりませんでした。「ある角度から見るとこちらの人生の方が有意義に思えるけれど、別の角度から見るとあちらの方が有意義だ。一体、どちらが自分にとって一番いいのだろう。結果として得なのだろう」という風に考えても、同じところを行ったり来たりするだけで、なかなか結論がでなかったのです。地上の物はすべて移り変り、考えるべき要素そのものが刻々と変化してゆきます。それどころか、判断を下す自分自身もどんどん変化してゆきますから、その中でいくら損得勘定をしても決定的な結論に到達することはできない。それは、ある意味で当然のことでしょう。
 自分が見つかったと思ったのは、そのような自分中心の考え方を捨てたときでした。もうこれ以上考えても仕方がないと覚悟を決め、神の前に跪いて「あなたがわたしに望まれることはなんでしょうか」とひたすら問い続ける中で、あるときついに自分の道が示されたのです。アッシジのフランシスコの「平和の祈り」の中に、「自分を忘れることによって自分を見出し」という一節がありますが、自分中心に、損得勘定を巡らせて「自分探し」をしている限り、決して自分は見つかりません。自分のことを脇に置き、ただ神のみ旨を求めるとき、わたしたちは初めて本当の自分を見つけることができるのです。それが、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」ということなのだろうと思います。
 墓穴の中にイエスはいなかったという出来事も、この真理を指し示すものと読むことができるでしょう。自分中心の考え方しかできない「古い自分」、地上の物に心を引かれて損得勘定ばかりしている自分をわたしたちは葬りました。いつまでも、その同じ考え方の中にとどまっていては、復活の命を見つけることができません。エゴイズムに引き回され、恐れや不安に満たされた墓穴の中にとどまっていては、復活の命を見つけ出すことができないのです。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という言葉は、わたしたちが目を向けるべき方向をはっきり指し示しています。喜びと力に満ちあふれた本当の人生、神様のみ旨にかなった本当の自分として生きるために、いつも自分ではなく天を見つめて歩んでゆけるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(851)古い自分に死ぬ

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古い自分に死ぬ

 あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:3-11)

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とパウロは言います。古い自分に死ぬことによって、キリストと共に新しい命によみがえる。それが、わたしたちが信じている復活です。「死んでから生まれ変わっても、もう手遅れ」という言葉を聞いたことがありますが、わたしたちの復活は死んだ後だけでなく、生きているうちに生まれ変わるということなのです。
 今年の聖週間、わたしは風邪を引いていました。教会の中では依然として「若手」と呼ばれますが、さすがに「アラフィフ」の声が聞こえ始め、だんだん無理がきかなくなってきているようです。体がだるくて動かなくなると、わたしは極端に機嫌が悪くなります。イライラして自暴自棄になり、周りに当たり散らすようになるのです。なぜそんなことになるのかと考えると、それは普段できることができなくなるからだと思います。やらなければならない仕事はたくさんあるのに、それが思った通り、いつものようにできない。「何でこんなこともできないんだ」という思いが、苛立ちを生むのです。
 これは、普段わたしが「自分の体は自分の思った通り動いて当然」と思い込んでいることの裏返しでしょう。健康に思い上がり、いつの間にか自分が自分の主人であるかのように思い込んでいるのです。そのため、体が自分の思った通りになると腹を立てて自分自身に当たり、そればかりか、その腹立ちを周りの人にぶつけたりするようになるのです。これは、「古い自分」がまだわたしの中で健在であることの証だと思います。
 アダムとエバの犯した原罪から人間の中に罪が入ったと言いますが、原罪の核となっているのは、自分自身を神とし、すべてを自分の思った通りにしようとする傲慢だと言っていいでしょう。自分を神とし、すべてを自分の思った通りにしたい自分こそが、アダムとエバ以来の「古い自分」なのです。「古い自分」に死ぬとは、自分がただの人間に過ぎないことを思い出し、自分の限界を受け入れるということ。「新しい自分」に生まれ変わるとは、自分勝手な思い込みを捨て、神のみ旨に身を委ねるということだと言っていいでしょう。
 風邪の例で言えば、「自分はもっと出来て当然。わたしとしたことが、何でこんなことも出来ないんだ」という思いを捨て、「これがわたしの体力の限界。ここまで出来たことを神に感謝し、いま与えられている力でできる限りのことをやろう」と考えるのが「古い自分」に死んで、「新しい自分」に生まれ変わるということでしょう。「新しい自分」に生まれ変わるとき、苛立ちは消え、代わりに穏やかな喜びがわたしたちの心を満たします。そして、やはり同じように疲れている家族や友だちに、やさしい言葉をかけられるようになるのです。
 復活とは、暗い墓穴から出ることだとも言われます。「古い自分」にこだわっているとき、わたしたちの心に生まれる苛立ちや怒り、不安、恐れ。そういったものが生み出す闇こそが、墓穴だと考えたらいいでしょう。墓穴から出るとは、何の恐れもない、喜びと感謝に満ちた光の中で生きるということなのです。「古い自分」に死に、喜びと感謝に満たされた「新しい自分」に復活できるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(850)真理とは何か?

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真理とは何か?

 ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。(ヨハネ18:33-38)

「あなたは王なのか」というピラトの問いに対して、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とイエスは答えました。イエスがもし王であるとするなら、それは真理を求める人々が自発的にイエスの周りに集り、イエスに従うことによって生まれる国の王、「真理の国」の王なのだということでしょう。「真理とは何か」とピラトはイエスに問い返しますが、もっともな質問だと思います。真理とは一体、なんなのでしょう。どうすれば、わたしたちは、イエスの統べる「真理の国」の国民になれるのでしょうか。
 真理とは、人間が生きてゆく上で、誰もがそうだと納得する事実。中でもとりわけ、人間の幸せと直接に関わるような事柄を指しているように思います。多くの人が信じている一つの真理は、人間は死んだらおしまい。生きている間に少しでも多くの快楽をむさぼることこそが、人間の幸せだという考え方でしょう。自分のことばかり考えていては、すぐに行き詰まる。より多くの快楽をむさぼるために、互いに協力し、隣人に適度に奉仕する方が得だという考え方もありますから、このような真理に従って生きる人も、見かけ上は愛を実践しているように見えます。ですが、死の間際になれば、誰しも死を恐れることになるでしょう。どれほど地上の喜びをむさぼったとしても、欲望は無際限であり、「これで満足。もういつ死んでも構わない」ということにはならなかならないからです。
 そのような見せかけの真理しか見つけられない人間たちに、本当の真理を教えるためにイエスはやって来られました。それは、「人間の命は、死によって終わるものではない。地上の欲望をむさぼることよりも、もっと大切なことがある」という真理です。人間の命は、古い自分を十字架にかけ、自分に死ぬときにこそ本当の輝きを放つ。イエスが十字架上で苦しみ、死に打ち勝って復活したのは、この真理を、身をもって証するためだったと言っていいでしょう。
 イエス・キリストを信じたわたしたちは、十字架にこそ真理があることを知っています。人間の命は死によって終わるものではなく、地上の快楽をむさぼることよりも、神のみ旨のままに生きて天上の喜びを味わうことの中にこそ、本当の幸せがある。それこそが真理だと信じてキリスト教徒になったのです。ですが、それにもかかわらず、わたしたちは日常生活の中でついつい、地上の見せかけの真理に心を引かれ、少しでも地上の快楽をむさぼらなければ損だと考えてしまいがちです。そのたびごとに十字架の前に立ち、十字架を見上げるべきでしょう。十字架こそ、キリストが治める「真理の国」への道標であり、十字架を通らなければ誰も「真理の国」に入ることはできない。そのことを、今年も改めて、しっかり心に刻むことができますように。

 

 

バイブル・エッセイ(849)汚い部分を洗う

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汚い部分を洗う

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 最後の晩餐を前にして、イエスが弟子たちの足を洗ったとヨハネ福音書は伝えています。ちょっと分かりにくい行動ですが、イエスはペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言いました。イエスが、この出来事を通してわたしたちに伝えたかったことは、一体なんだったのでしょう。
 足を洗うということは、当時の人にとってはちょっと勇気がいることだったでしょう。当時の人たちの履物はサンダルのようなもので、道は舗装されていませんでしたから、足は相当に汚れていたはずです。そのように汚れた足を見るのは嫌だし、まして手で洗えば、自分の手に汚れがうつるような気がしたに違いありません。それでも、イエスはあえて汚い足を洗った。そこにメッセージの核心があるように思います。
 わたしも、修練期や神学生の頃に実習で病院や老人ホームなどに行き、汚れ仕事をお手伝いしたことがあります。患者さんや利用者さんの下の世話です。中には、トイレまでは行けるけれど、お尻はふけないという方もおり、お尻をふく役を仰せつかったこともあります。そのような仕事をするのは、始めとても抵抗感がありました。糞便というのは不潔だし、できれば見たくない。まして、触りたくなんかないという気持ちが強かったのです。ですが、やっているうちに、あるところで開き直りというか、覚悟が決まりました。これも、人間の現実なのだ。神様が人間をこのように造ったのだから、糞便も決して汚いものではないと思うことにしたのです。それからは、あまり抵抗を感じずに奉仕ができるようになりました。
 司祭になってからも、似たようなことを体験しました。それは告解の時間です。長い時間、たくさんの罪を聞いていると、最初はとても気が重くなりました。人間の汚い部分から、目を背けたいという気持ちがあったのです。ところが、あるときから、これも人間の現実なのだと思えるようになりました。人間は、誰しも弱さや不完全さを背負いながら生きている。神様はそのようなわたしたちを、あるがままに受け入れ愛してくださる。よいところだけでなく、汚いところも含めて相手をあるがままに受け入れる。それが、愛するということなのだと思えるようになったからです。
 汚い部分を洗うということは、人間の現実をあるがままに受け入れるということに他ならないと思います。人間である以上、誰しもトイレには行くし、自分勝手な欲望が心に生まれることもあるのです。神様は、そのようなわたしたちの現実を知り、あるがままに受け入れてくださいます。それこそが、神様の愛に他ならないのです。最後の晩餐の席で、イエスはそのような愛を、身をもってわたしたちに示してくださいました。わたしたちも、その模範に倣って生きられるよう祈りましょう。