バイブル・エッセイ(862)始めるならいま

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始めるならいま

 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。(ルカ9:57-62)

「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と願う人に、イエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言いました。一度決心したなら、あれこれ理由をつけて実行を遅らせてはいけない。すぐに始めなさいということでしょう。
 実際、わたしたちは回心して生活を変えようと思っても、さまざまな理由をつけてなかなか始めないことが多いのです。たとえば、「近頃お腹が出てきた。これでは体によくない。ダイエットをしよう」と決心したとしましょう。でも、いざ始めようとすると、できない理由がたくさん見つかります。「今晩はお祝いだから」「これは今しか食べられないから」などと理由をつけているうちに、結局「ダイエットは明日から」ということになり、いつまでたっても始まりません。どんなによいことであり、しなければならないことだと分かっていても、なかなか始められない。それが、人間の弱さだと言っていいでしょう。
 イエスの教えに従って歩もうとするときでも、同じことが起こります。例えばミサで聖書の言葉を聞き、「よし、これからは教会での奉仕を積極的に引き受けよう」と決心しても、「でも、いまはあれもしなければいけないし」「もう少しすれば時間ができるから、そのときに引き受けよう」などと考えるうちに、いつまでたっても実行することができません。「あの人と仲直りしよう」と決心しても、「いきなり話しかけるのは気まずい」「そのうちよいタイミングがきたら」などと考えて決意は先延ばしにされてゆきます。問題は、いつ始めるのかということです。始めるなら、いましかない。いま始めなければ、いつまでたっても始まらない。イエスは弟子たちに、そう言いたかったのだと思います。
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する」とパウロは言います。肉の望みとはわが身を守ること、自分の欲望を満たすこと。霊の望みとは、神のため、人々のために自分を差し出すこと、愛で心を満たすことだと言っていいでしょう。霊の望みに従って生きるときにこそ、本当に幸せに達することができると、わたしたちは誰もが心の中で感じています。ところが、いざというときになると肉の望みに引きずられ、欲望の奴隷になってしまうのです。自分に都合のいい理屈をつけて決心を鈍らせようとする心の動きは、すべて悪魔の誘惑だと言っていいでしょう。
 教皇フランシスコは、今年のワールド・ユース・デーで若者たちに向かって、「いつ始めるですか。それはいまです」と語りかけました。神は、いますぐわたしたちが愛し合い、この世界に御国が実現することを望んでおられます。誘惑を断ち切り、いま始める勇気と力を神に願いましょう。
 

バイブル・エッセイ(861)愛された記憶

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愛された記憶

 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。(一コリ11:23-26)

「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とイエスは弟子たちに言い残しました。神の愛がいっぱいに詰まったキリストの体を、感謝して共に味わうとき、わたしたちの心は喜びと力で満たされます。これからの日々を、頑張って生きてゆこうという気持ちになるのです。わたしたちが、どんな試練にあっても挫けることなく福音を宣教してゆくための力として、イエスはこの記念を残してくださったのでしょう。
 思い出すたびごとに力を与えられる記憶。そんな記憶が誰にでもあるのではないでしょうか。わたしは、何か本当に辛いこと、絶望的なことがあったときに、ふと祖母や曾祖母のことを思い出します。わたしは「おばあちゃん子」だったので、子どもの頃はいつもおばあちゃんにくっついていました。祖母のそばで過ごした日々のこと、祖母のぬくもりを思い出すと、どんなに辛いときでも、「きっと何とかなる。もう一度頑張ってみよう」という気持ちになります。まだ何もできなかった子ども時代に、あるがままの自分を受け入れてもらった体験。それこそ、無条件の愛の体験だと言っていいでしょう。
 曾祖母はわたしが生まれて1年くらいで亡くなったので、まったく覚えていませんが、祖母からいつも「ひいおばあちゃんは、お前が生まれたばかりの頃、いつも添い寝してお前をうちわであおいだりしていたんだよ。あの世から、守ってくれるに違いない」と言われて育ったので、祖母のことと同じようによく覚えていて、その言葉もわたしにとっては、いざという時の特効薬のような言葉になっています。まったく無力な赤ん坊のとき、あるがままで受け入れられた体験。これこそ、無条件の愛の究極と言っていいでしょう。
 このように、誰かから無条件で愛された記憶、「お前が生まれてきてくれただけでうれしい。生きていてくれるだけでありがたい」というような愛を受けた記憶は、わたしたちに生きるための力を与えてくれるように思います。そのような記憶を思い出し、涙を流して味わうとき、わたしたちは「このくらいで負けてたまるか。頑張るぞ」と思える力を与えられるのです。
 イエスから愛された記憶、御聖体の記憶も、まさにそのようなものでしょう。わたしたちは直にイエスと会い、十字架を目撃したわけではありません。ですが、誰しも、神の前で赤子のような無力な自分をさらけ出し、あるがままに受け入れられた体験を持っていると思います。わたしたちは誰も、イエスの無条件の愛と出会ったことで生まれ変わり、この道に招かれたのです。キリストの体である御聖体は、わたしたちが出会ったイエスの愛の記念、救いの恵みの記念だと言っていいでしょう。感謝して味わい、生きてゆくための力をしっかり受け取りたいと思います。

バイブル・エッセイ(860)希望を生み出す力

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希望を生み出す力

 わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:1-5)

「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とパウロは言います。苦しみに耐える中で信仰が磨かれ、磨かれた信仰はわたしたちの心に希望を生むということでしょう。苦しみの中でわたしたちの心に宿るこの希望を、聖霊と呼んでもいいかもしれません。苦しみの中にあっても決して諦めず、祈り続けるとき、わたしたちの心に聖霊が宿るのです。
 これは、わたし自身、日々実感していることです。このところ、研修会や講演会の講師を頼まれることが多いのですが、その一つひとつが、わたしにとっては試練であり、多かれ少なかれ苦しみを伴います。先日も、福島県の大学の公開講座で、一般の方向けにお話をする機会がありました。いつもとは違う対象で、しかも高齢の方が多いということで、一体どんな話をしたらいいのか、「これは大変な仕事を引き受けてしまった」とずいぶん苦しみました。よくあることですが、そんなとき、わたしはあるところで諦めるようにしています。「もうわたしには無理です、神さま助けてください」と神様に下駄を預けてしまうのです。すると、不思議なことに、心の中に不思議な力が湧き上がってきます。今回も、その力に動かされてもう一度原稿を見直すと、よくないところ、余分なところが見えてきて、最後にはなんとかまとまった原稿が出来上がりました。結果として、皆さんにとても喜んでいただくことができたのです。
 これは、本などの原稿を書くときもまったく同じです。最初は、「何とかして気の利いた文章を書こう」「どうしたら売れるだろう」などと考えるのですが、途中で「そんなの絶対に無理だ」と気づきます。そして、神さまの手にすべてを委ねてしまうのです。すると、思いがけない気づきやアイディアが与えられ、何とか文章を書きあげることができます。苦しみの中で自分の無力さに打ちのめされ、すべてを神の手に委ねるとき、わたしたちの心に聖霊が宿ると言っていいでしょう。聖霊とは、希望を生み出す力であり、わたしたちを決して裏切ることのない希望そのものなのです。
 弟子たちの心に聖霊が宿ったプロセスも、きっと同じだろうと思います。イエスと一緒にいたとき、まだ弟子たちはイエスの言っていることの意味が分かりませんでした。まだ、自分たち自身の力を信じ、自分たちの思い通りにことを進めようという気持ちがあったからです。ですが、十字架の苦しみの中で自分たちの無力さを知り、神の手にすべてを委ねたとき、弟子たちの心に聖霊が宿りました。聖霊は、弟子たちに知恵と力を与え、あらゆる苦しみを乗り越えてゆく希望をもたらしたのです。
 苦しみの中で、イエスの言葉の本当の意味を解き明かす力、すなわち聖霊がやって来る。聖霊がやって来て、イエスの言葉の本当の意味を悟るとき、わたしたちの心は父なる神の愛で満たされる。それを、苦しみの三位一体と言ってもいいでしょう。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」というパウロの言葉を支えに、苦しみの秘儀を生きてゆきたいと思います。

バイブル・エッセイ(859)三位一体の救い

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三位一体の救い

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:15-16、23b-26)

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とイエスは言います。イエスの言葉を受け入れ、それに従うとき、わたしたちの心を父なる神の愛が満たすと言っていいでしょう。父と子は、その意味で一つなのです。では、今日祝う聖霊とはなんでしょう。聖霊とは、イエスの言葉をわたしたちに思い起こさせ、心に深く沁み込ませてくださる方、父なる神の愛でわたしたちの心を満たしてくださる方だとわたしは思います。
 このような父、子、聖霊、三位一体の救いの神秘を、わたしたちは日々体験しています。たとえば、わたしは仕事が忙しくて疲れが溜まり始めると、つい愚痴を言い始めます。「わたしはこんなにして上げたのに、相手は何もしてくれない」とか、「どうしてわたしばかりこんなに忙しいんだ」と周りの人たちを責め始めるのです。疲れが溜まると、相手を思いやるゆとりを失い、エゴが肥大化すると言ってもいいかしもれません。そんなときにふと、「いや、相手だって精一杯にやってくれているんだ。このような仕事をさせてもらっただけでも感謝すべきではないだろうか」という気持ちが湧き上がって来ることがあります。これが、聖霊の働きだとわたしは思います。
 聖霊が働くと、「互いにゆるし合いなさい、愛し合いなさい」と言われたイエスの言葉が思い出され、「こんなことではいけない」と思って相手に感謝する気持ちが生まれてきます。すると、それまで心を満たしていた怒りや憎しみは消え去り、心を愛が満たしてゆくのです。父なる神の愛が心に注がれ、心を満たすと言ってもいいでしょう。こうしてわたしは、エゴへの従属から解放され、「神の子」としての平和を取り戻すのです。
 心が神の愛で満たされるとき、わたしたちの口からは喜びの言葉があふれ出します。そして、自分自身が体験した救い、闇からの解放の体験を、誰かに語らずにはいられなくなるのです。心を満たした愛が、わたしたちをつき動かすと言ってもいいでしょう。聖霊降臨によってイエスの言葉を深く悟り、父なる神の愛で心を満たされた弟子たちは、愛に突き動かされて地の果てまで出かけて行ったのです。
 父、子、聖霊は、こうして三位一体となってわたしたちを救ってくださいます。三位一体というと理解しがたい謎のように思われがちですが、わたしたちは日々、三位一体の神秘の中に生かされているのです。教会を生かしているのは、三位一体の神秘に他ならないのです。イエスの言葉を深く悟り、父なる神の愛で心を満たしていただくために、三位一体の神秘の中で教会をさらに力強く成長させてゆくために、まず、心を開いて聖霊をお迎えすることができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(858)心を引き継ぐ

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心を引き継ぐ 

 使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒1:6-11

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と聖書は伝えています。復活し、永遠の命に生まれ変わったイエスですから、そのまま弟子たちと共に、教会と共に永遠に地上にとどまり続けることもできたでしょう。ですが、イエスはあえて天に帰り、弟子たちの前から姿を消しました。それは、なぜでしょう。
 昇天ということで、わたしが思い浮かべるのは、火葬場から昇ってゆく白い煙です。わたしたちは、イエスのように昇天することはありませんが、死んだ後、焼かれて煙となり、天に昇ってゆくのです。先日も、ある若者が病気で亡くなり、葬儀をして火葬場まで見送りました。彼が亡くなったことは大きな悲しみでしたが、その死に寄り添った友人たちからは、「これからは、〇〇君の分もぼくたちが頑張って生きる」という言葉が口々に聞かれました。天国の彼に恥ずかしくないような生き方、彼の友人としてふさわしい生き方をしてゆきたいということでしょう。亡くなった若者は、とても心が優しく、家族や友人のことを自分のことより先に考える人でした。友人たちも、彼の思いを心にしっかり受け止め、彼に倣って心の優しい人になってゆくことだろうと思います。彼はいなくなりましたが、彼の心は、ご家族や友人たちの中によみがえり、しっかりと引き継がれたのです。
 イエスの昇天にも、同じような意味があったのではないかと思います。イエスが昇天した後、聖霊が降ると、イエスの弟子として地の果てにまで出かけてゆきました。イエスの姿が見えなくなったことによって、彼らの心に「イエスの弟子として恥じない生き方をしよう」という思いと、その思いを実現するための力が宿ったのです。彼らの心に、イエスの命が宿ったと言ってもいいかもしれません。イエスの思いは、すべての弟子たちの中によみがえり、引き継がれたのです。
 それは、弟子たちの一人ひとりが、「神の愛の目に見えるしるし」になるということでもあります。もしイエスが昇天しなければ、「神の愛の目に見えるしるし」はいつまでもイエス一人だったかもしれません。弟子たちは、いつまでも目に見えるイエスに頼り続け、そのそばを離れられなかったことでしょう。ですが、イエスの姿が見えなくなったとき、弟子たち一人ひとりの心にイエスの霊が宿り、「神の愛の目に見えるしるし」として生きる決意が芽生えました。神の愛を生きる、「神の愛の目に見えるしるし」として生きようとする人が、たった一人から、何千人、何万にまで増えたのです。
 昇天から聖霊降臨という一連の典礼の中で、わたしたちの心にも同じことが起こります。イエスとつながっていなければ何もできないわたしたちですが、いつまでもイエスに頼るだけではいけないのです。イエスから頂いた恵みをしっかりと心に刻み、わたしたち一人ひとりがこの地上で「神の愛の目に見えるしるし」となってゆけるように、ご一緒に祈りましょう。

【新刊】『ぬくもりの記憶』のご案内

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愛は心に降り積もる

 故郷の風景、キリスト教との出会い、神父になるまでの道のり、暮らしの中でのささやかな喜びー懐かしい日々の思い出を呼び覚ます、珠玉のエッセイ集『ぬくもりの記憶』。6月下旬発売。教文館刊、定価1,000円(税別)。

※現在、全国の書店で予約受付中。通販でも予約を受け付けています。

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バイブル・エッセイ(857)キリストの平和

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キリストの平和

「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(ヨハネ14:23-29)

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエスは弟子たちに約束しますが、但し「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言います。「世が与える平和」とは、力と力の均衡によって生み出される平和、力で相手を従わせることによって生まれる平和でしょう。キリストが与える平和は、そのようなものではありません。キリストが与える平和とは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とイエスが言うように、謙虚な心で神を愛し、神の言葉に従って生きる人々の間に生まれる平和。互いへの愛に基づく平和なのです。
 一緒に暮らしている80代の神父たちを見ていると、その平和が具体的にどのようなものかがわかります。たとえば、彼らは決して人の悪口を言いません。誰かが悪口を言い始めても決して同調せず、むしろ「まあ、でもあの人にもこんないいところがある」と言ってかばおうとします。それはおそらく、これまでの人生経験の中から、人間がどれだけ弱い存在であるかをよく知っているからでしょう。弱い人間同士、互いの弱さを暴き立てたところでどうにもならない。むしろ、弱い人間同士、互いのよさを認め合い、支え合いながらいきてゆくのが一番いいとわかっているのだと思います。自分自身が神からゆるされてきたことを知り、そのことを神に感謝して生きる人は、「互いにゆるしあいなさい」という神の言葉を当然のように守る、と言ってもいいでしょう。
 彼らは、衣食住などについて不平不満を言うことがありません。与えられたものに感謝し、すっかり満足しているように見えます。歳をとって欲がなくなったということだけではないでしょう。ある神父さんはよく、「お金や名誉をどんなに手に入れても、もっと欲しくなるだけだ」と言います。彼らはおそらく、長い人生経験の中から、たくさんのものを求めても心が満たされることはない。むしろ、大切なのは感謝する心だと知っているのだと思います。何かを独り占めにしようとすることもありません。すべてを与えてくださる神に感謝し、必要な人がいれば、何でも喜んで分かち合います。自分がどれだけ神から与えられているかを知り、それに感謝して生きる人は、「互いに愛し合いなさい」という神の言葉を当然のように守る、と言ってもいいでしょう。
 彼らは、聖霊に守られて生きていると言ってもいいでしょう。自分がゆるされていることを忘れず、それに感謝する謙虚な心、与えられていることを忘れず、それに感謝する謙虚な心に聖霊が宿ります。そして、その人をゆるしと愛の業に導くのです。謙虚な心で聖霊を迎え、キリストの平和を生きることができるように祈りましょう。