バイブル・エッセイ(877)熱心に祈る

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熱心に祈る

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ16:1-8)

 しつこく裁判官にせがんで、願いを叶えてもらったやもめの話が読まれました。ちよっとどうかと思う話ですが、ここでイエスが言いたいのは、何があっても諦めないやもめの熱心さに見倣えということでしょう。わたしたちは、願いを持っても、すぐに諦めてしまうことが多いのです。

 例えば、世界の平和について。わたしたちは、毎週のように世界の平和を願いますが、果してこのやもめのような熱心さをもって祈っているでしょうか。心のどこかで、「もうこんなに祈ったんだし、世界は複雑だから、祈ってもすぐに平和になるということはないだろう」というような諦めを感じていないでしょうか。それでは、決して願いはかなえられないでしょう。このやもめのようになりふり構わず、なんとしてでも願いを聞き入れてもらうというくらいの覚悟が必要です。「神さま、いますぐにでも空爆を止めてください。子どもたちの命を守ってください」と心の底から真剣に祈るなら、神さまは必ず願いを聞き入れてくださるでしょう。少なくとも、そのように祈るとき、この世界には神への愛、神への信仰が生きており、神様は必ずそれを見つけてくださるのです。

 あるいは例えば、家族や友人との関係について。間違った道に進んで、頑なに忠告を受け入れようとしないような人、夫や子どもなど、に対して、わたしたちはつい「もうこれ以上やっても無駄だ」と諦めてしまいがちです。ですが、そんなことはありません。もしわたしたちが真剣に、心からの愛をもって祈り続けるなら、神さまは必ず相手の心を変えてくださいます。「折が良くても悪くても励みなさい。…忍耐強く、十分に教えるのです」とパウロが言うように、忍耐強く愛を注ぎ続ければ、必ず相手の心は変わります。わたしたちの心に神の愛が宿るとき、それと出会った人の心は必ず変わります。もし変わらないなら、それはまだわたしたちが十分に祈れていないから、わたしたちの心に神の愛が宿っていないからです。人間の心が変わるとき、どれほど困難に思えた状況にも、必ず変化が訪れます。祈りはわたしたちの心を変え、周りの人たちの心を変え、世界を変えてゆくのです。

 わたしたちが熱心になれない一つの理由は、どこかで他人事だと思っていることでしょう。もし自分自身が爆弾の危険にさらされており、自分の子どもたちが傷ついているなら、わたしたちはきっと一心不乱に祈り続けるでしょう。しつこいやもめのように、神さまを追いかけまわすに違いありません。簡単に諦めてしまうなら、それは、わたしたちの心にまだ愛が足りないから。どこかで他人事だと思っているからなのです。

 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」とイエスは言います。大切なのは、わたしたちの心に信仰が燃えていること、愛の火が燃えていることです。苦しんでいる人たちへの愛、家族や友人への愛に突き動かされ、このやもめにも負けないほどの熱心さで願い続けることができるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(876)救いの法則

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救いの法則
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)

 病を癒されたことを感謝するために戻ってきたサマリア人に、イエスは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけました。体が癒され、心を神への感謝で満たされたこの人に、救いが訪れたということです。戻らなかった人たちは、体は癒されたかもしれませんが、心に救いが訪れたかどうかは分かりません。救われるためには、神に感謝する心が必要だということを、この話はわたしたちに教えているようです。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、わたしたちは、何か困難に直面したときには神さまに祈るけれども、困難が取り去られたときには、神さまを忘れてしまうことが多いようです。救ってもらったことは忘れて、さらに、「あれも足りない、これも足りない」と神さまに不満を言うことさえあります。それでは、いつまでたっても心は満たれないし、救いに到達することもできないでしょう。

 わたし自身の体験で言えば、これまでの人生の中で一番たくさん祈ったのは、神父になるときでした。叙階が本当に認められるかどうかは、最後まで分かりません。決定直前の時期は「神さま、どうかみ旨であれば神父にしてください」とずいぶん祈ったものです。叙階が認められたときは、心の底から「神さま、どうもありがとうございました」と感謝しました。

 ところが、最近どうも、そのことへの感謝を忘れがちです。神父になれたことだけでも感謝すべきことなのに、それだけで満足できず、神さまに不満を言ってしまうのです。「神さま、あれが足りません。あれさえ手に入れば幸せになれるのに」とか、「なぜこんな目に会わせるのですか」とか、ないものばかりを見て、「自分はなんて不幸なんだ」と思い込んでしまうのです。

 そんなとき大切なのは、叙階の喜びを思い出すことです。喜びを思い出し、感謝の心を取り戻しさえすれば、あれが足りない、これが足りないと不満ばかり言ってつまらなそうな顔をしていては申し訳ないという気持ちになります。神さまにして頂いたことを思い出して感謝するとき、心に湧き上がる喜び。それこそ、わたしたちに与えられる救いなのでしょう。

 一人ひとりに、そのような大きな恵みの体験があると思います。たとえば、結婚について、いまは色々と苦情があるかもしれませんが、そもそも結婚できたということ自体が神さまからの恵みなのです。子どもについても、いまは色々と文句が言いたくなるかもしれませんが、そもそも生まれてきてくれたということが恵みなのです。そのことを思い出して感謝するとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。その喜びが、さまざまな困難を乗り越えてゆくための力になるのです。

 感謝しなければ、どんな大きな恵みも手のひらをすり抜け、心を満たすことがありません。逆に、どんなわずかな恵みでも、大きな感謝で受け取れば、心を十分に満たすことができます。それが、救いの法則だと言っていいでしょう。受け取った恵みへの感謝を忘れず、いつも謙虚な心で生きてゆくことができるよう神さまに祈りましょう。

バイブル・エッセイ(875)特別な謙虚さ

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特別な謙虚さ

 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:7-10)

 神のしもべである以上、神から自分に与えられた使命を果たしても、威張ったり、見返りを求めたりするべきでないとイエスは弟子たちに諭します。これは、神から与えられた使命を生きるすべての者に向けられた忠告と言っていいでしょう。
 与えられた使命を果たしただけなのに、それをまるで自分の手柄のように誇り、見返りを要求し始める。そのようなことはよくあると思います。たとえばわたしは日々、神父として与えられた使命を果たしています。ミサを捧げたり、幼稚園や刑務所で話したり、それがわたしに与えられた使命だからです。ですが、ときどき、心に思い上がりが生まれます。「わたしは、こんなにみんなの役に立っている。偉い人間だ」と思い込み、「尊敬されて当然だ、感謝されて当然だ」と思うようになるのです。誰かにぞんざいな言葉遣いで話しかけられると、「わたしを誰だと思ってるんだ」と腹を立てて不愛想な態度を取ったり、自分のしていることを誰も評価してくれないと、「こんなに一生懸命にやっているのに、なぜ誰も褒めてくれないんだ」と不機嫌になったり。そんなことがつい起こりがちです。
 そんなときに思い出さなければならないのは、自分は単に、神から与えられた使命を果たしているにすぎない。神のしもべに過ぎないということです。与えられた使命を、当然に果たしているだけであって、決して「偉い人間」ではないのです。神から神父という大切な使命を与えられ、人々のために自分を差し出して働くことができる。そのこと自体が、とるに足りないしもべであるわたしにとっては感謝すべきことです。
 皆さんの場合であれば、たとえば子育ての使命があります。子どもが生まれたとき、おそらく、こんな自分に元気な子どもが与えられたことを神に感謝したことでしょう。ですが、子どもが育ってくると、子どもに対して、あるいは神様に対してつい不満を言ってしまいがちです。「こんなに苦労して育ててやったのに、なんで言うことを聞かないんだ」とか、「なぜ『ありがとう』の一言もないんだ」とか、そのような言葉が、つい口から出てしまうのです。そんなときには、自分がただのしもべに過ぎないことを思い出すべきでしょう。わたしたちは、神様から子育てという使命を与えられたしもべ。苦労して子どもを育てるのが当たり前なのです。尊敬してもらえない、感謝してもらえないというような不満を言うことはできません。むしろ、神様から子どもを預かり、育てるという尊い使命を与えられたことに感謝すべきなのです。結婚やそれぞれの職業など、すべての使命について同じことが言えるでしょう。
 与えられた役割を立派に果たすことが、しもべには期待されています。ですが、使命をどんなに立派に果たしたとしても、思い上がれば台無しです。使命を立派に果たしながら、それでいてまったく思い上がらない。しもべには、そのような特別な謙虚さが求められているのです。神への感謝を忘れず、謙虚な心で奉仕の道を歩めるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(874)いつくしみの扉

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いつくしみの扉

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』」(ルカ16:19-26)

 地獄の炎に焼かれて助けを求める金持ちに、神は「わたしたちとお前たちの間には大きな淵がある」と答えます。淵とは何でしょうか。それはきっと、無関心だと思います。金持ちはラザロの苦しみにまったく関心がなく、ラザロに対して閉ざされています。その無関心が、暗い淵となってラザロと金持ちのあいだに広がっているのです。その淵は、神でさえ埋めることができません。その淵を越えられるものがあるとすれば、それは、貧しい人たちの苦しみに共感する愛だけでしょう。

 カトリック教会では、特別な祝いの年を聖年と定め、各教会に「聖年の扉」を指定することがあります。その門をくぐることによって、神の恵みの世界へと足を踏み入れることができるという特別な門です。でも、神の恵みの世界に入るための門は、実は、もう一つあります。それは、わたしたちの心の中にある、いつくしみの門です。苦しんでいる人を見て、その人に対して心を開くとき、わたしたちは神の恵みの世界に足を踏み入れることができるのです。

 神の恵みは、もちろん聖堂で祈っているときにも与えられます。神に自分を委ね、心を開くとき、開かれた心の扉から神の恵みが豊かに注がれるのです。でも、恵みが注がれるのは、天に向かって祈っているときだけではありません。目の前にいる兄弟姉妹や、苦しんでいる誰かに向かって心を開くとき、わたしたちの心に天からの恵みが豊かに注がれるのです。苦しんでいる誰かに心を開くとき、それまで、まったく思いもしなかったような気付きやひらめき、神の愛の深い実感、生きてゆくための勇気や希望などが天から降り注ぎ、わたしたちの心を満たすのです。心が通い合うとき、わたしたちのあいだに天国が生まれると言ってもいいでしょう。

 これは、教会や幼稚園、刑務所などで司牧をしていて痛切に感じていることです。聖堂での静かな祈りと、苦しんでいる人々とのかかわりの中で生まれる祈りと、その二つが司祭としてのわたしの霊的な支えです。二つの門は、表裏一体だとも感じます。どんなに神の前で祈ったとしても、苦しんでいる人に対して心を閉ざすなら、恵みの門はぴしゃりと閉ざされ、神の恵みはもう注がれなくなります。何とかしてあげたいと思って、苦しんでいる人に対して心を開いたとしても、沈黙の中でしっかり祈っていないなら与えるものが何もありません。キリストの弟子として生きるためには、いつも、心の扉を二つの方向に向かって開いている必要がある。日々の生活の中でそう感じます。

 今日のたとえ話の金持ちは、生きているあいだ門前で苦しんでいたラザロに心を閉ざし、死んだ後もまるで召使か何かのように思っていて、ラザロにまったく関心がありません。その無関心が金持ちを天国から遠ざけているのですが、そのことに気づかないのです。聖年の扉は、わたしたちの心の中にもあります。苦しんでいる隣人たちに向かって、いつくしみの扉を開くことができるよう神に祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(873)不正にまみれた富

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不正にまみれた富

「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(ルカ16:1-9)

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスは言います。主人の財産を横領した上に、主人の債権を勝手に減らしたということですから、そんな管理人が褒められるのはおかしいとも思えます。ですが、「金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」という言葉から分かるように、これは天国のたとえ話です。主人が神様で、管理人がわたしたちと考えれば、きっと納得できるでしょう。

 管理人ということで言えば、神父はこの話に一番ぴったりするかもしれません。神様から信頼されて神父になったのだけれど、自分のことばかり考えて、せっかく頂いた恵みもすべて自分のために使ってしまう。教会のお金まで自分のために使ってしまう。そのような不正を働いていれば、やがて司教様に見つかって解任されてしまうかもしれません。そんなときに、どうしたらよいでしょう。一つの方法は、解任されても困らないように、さらにたくさんの財産をごまかし、せっせと蓄えておくという方法です。普通に考えそうなことですが、これをやると、もし見つかったときには、「なんとずる賢い奴。お前にはもう任せられない」ということになりかねません。もう一つの方法は、神様から頂いた霊的な恵みを、説教や司牧活動を通してせっせと分かち合うこと。自分に対して、あるいは神様に対して罪の債権を負っている人がいれば、気前よくゆるしてあげることでしょう。この方法であれば、最初は「あれ、あの神父、近頃どうしたのかな」と不審に思われるかもしれませんが、やがては信徒からも愛されるようになるでしょう。神様からも、これまでの罪を大目に見てもらえるかもしれません。

 これは、神父に限らず、すべての人に当てはまる話でもあります。わたしたちの命、能力、時間などは、すべて神様からお預かりしているものなのです。それをもし、すべて神様のみ旨のままに管理していると言い切ることができる人がいれば、その人は「不正でない管理人」です。でも、もしそう言い切れないとすれば、わたしたち自身も「不正な管理人」だと考えた方がいいでしょう。「神様の前に引き出され、人生の決算書を提出しなければならいなときが近づいている。このままではまずい」と思ったなら、いまからでも遅くありません。この「不正な管理人」のように、友だちを作ること。神様から預かった財産を、惜しみなく人々のために使ってしまうことだと思います。そうすれば、周りの人たちからも愛されるようになり、神様からもこれまでの罪を大目に見てもらうことができるでしょう。

 そもそも、人々に分かち合うのは、神様から預かった財産の一番正しい使い方です。イエスは、それを分かりやすいたとえで思い出させてくれたのです。わたしたちが預かった命、力、時間、すべては人々と分かち合うためのもの。本来の使命に立ち返り、たくさんの友だちと一緒に天の国に迎え入れていただくことができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(872)愚かなまでの愛

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愚かなまでの愛

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:1-7)

 羊が1匹でも迷子になれば、羊飼いは「99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とイエスは言います。自分が迷子の小羊だと思えば、これはとてもありがたい話です。でも、中には「留守の間に残りの99匹がいなくなっていたらどうするんだ」と思う方もいるでしょう。損得で考えれば、1匹くらいは放って置いて、99匹を守ったほうがいいとも思えるのです。

 神様の愛は、人間のそのような思いをはるかに越えて深い。損得勘定をはるかに越えている。イエスが言いたいのは、実はそのことだと思います。神様にとって大切なのは、損得ではなく、いま苦しんでいる一匹の羊。その苦しみを思うと、いてもたってもいられなくなって探しに出かけるのが神様だということを、イエスは伝えたいのです。もし自分の子どもが外国で行方不明になれば、親は会社をやめてでもその子を探しに行でしょう。それと同じように、神様は他のすべてを捨ててわたしたちを探してくださる方。それほどまでにわたしたちを愛して下さってる方だということを、イエスはわたしたちに伝えたかったのです。

 聖書の中には、この話と同じように、人間の目から見ると「これはちょっとどうかな」と思われる話がたくさんあります。この話に続いて出て来る「放蕩息子のたとえ」もそうです。人間の目から見れば、一生懸命に働いたお兄さんの気持ちもよく分かる。怠け者の弟が帰ってきたからといって、そこまでしてやる必要があるのかと思う人もいるでしょう。ですが、神様の愛は、そのような人間の思いをはるかに越えています。自分の息子、娘であるわたしたちが、道を見失って苦しんでいると思えば、自分も苦しくて仕方がない。いつもわたしたちのことを思い、わたしたちの帰りを待ち続けている。それが、父なる神様の愛だとイエスは伝えたいのです。

 似たような話で、「ぶどう園の労働者のたとえ」というのがあります。神様は、朝から何時間も働いた労働者にも、夕方から来て1時間だけ働いた労働者にも、同じ賃金を支払う方だというのです。ちょっと聞くとおかしいのですが、ここでもイエスが言いたいのは、神様の愛の深さです。神様は、人生の最後に回心して神のブドウ畑にやって来た人も、子どもの頃から働いていた人と同じように天国に招き入れてくださる。それほどまでに、わたしたち一人ひとりを愛しておられるとイエスは伝えたいのです。

 聖書を読んでいて「これはおかしいな」と思う箇所があれば、そこにこそ、神様の愛が隠されている可能性があります。わたしたちが「おかしい」と思うのは、神様の愛が人間の理解をはるかに越えているからなのです。わたしたち一人ひとりを探し続け、待ち続ける神様の愛、愚かなまでのその愛をしっかりと心に刻み、その愛にこたえて生きられるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(871)純粋な思い

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純粋な思い

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。…だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

 家族や自分の命を「憎まないなら」、持ち物を「一切捨てないなら」、弟子としてふさわしくないとイエスは言います。すべての執着を捨て、ただ神から与えられた十字架、地上で果たすべき使命の十字架を担って生きることこそ、キリストの弟子の本来あるべき姿だ。そのような生き方にこそ、わたしたちの救いがあるということでしょう。

 「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです」と知恵の書が語っていますが、まったく同感という気がします。人間というより、自分自身について「わたしは何と浅はかなのだろう、不確かなのだろう」と実感することが多いからです。例えば先日、こんなことがありました。何人かでお茶を飲んでいたとき、ある方が「片柳神父の説教はいつも長いですね」とおっしゃいました。わたしは若干プライドを傷つけられ、「いや、それは意味があってのことなのです」とやや感情的に言い返しました。二人の会話を注意深く聞いていた方がわたしに言ったのは、「なるほど、神父様は、自分は説教がうまいと思っておられるのですね」ということでした。自分のプライドを守ろうとして感情的になった結果、決定的に信用を失ってしまうというのは一つのパターンで、それを繰り返しているわたしは本当に浅はかだと思います。

 そのような場合に、まず考えるべきなのは「神さまは、わたしがこの場面で何を話すことを望んでおられるだろうか」ということだと思います。自分のプライドうんぬんは脇に置き、神のみ旨にかなうことを行うのが、最も賢明なのです。この場面なら、「そうなんですよ、どうぞお祈りください」などとさりげなく受け止めるのが一番よい対応だったでしょう。わたしたちの使命は、自分のプライドを守るために感情的になって人を傷つけたり、対立抗争を引き起こしたりすることではなく、神の愛をこの地上に実現すること。ゆるしと和解を実現してゆくことなのです。

 問われているのは、思いの純粋さということでしょう。財産や名誉、家族、自分自身のプライドなどに執着すれば、判断を誤り、イエスの弟子としてふさわしい行動を選べなくなってしまいます。かえって、自分がイエスの弟子としてふさわしくないことを自分で証明することにさえなりかねません。

 執着が生まれてくるのは人間として当然のことで、それを完全に消すことはできないでしょう。大切なのは、執着が生まれて来るたびに、感情的になって自分を守りたくなるたびに、その思いを神の手に委ねることだと思います。イエスの弟子に求められているのは、一つ一つの執着を手放し、純粋になってゆくこと。ただひたすら神を愛し、神からあたえられた使命、愛する使命を果たしてゆくことなのです。わたしたちの行動をいつも主が導き、わたしたちの心を主が清めてくださるように祈りましょう。