バイブル・エッセイ(893)信仰の光

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信仰の光

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-17)

「あなたがたは世の光である...あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい」とイエスは言います。わたしたちの心に宿った信仰の光、喜びの光、愛の光を隠してはいけない。恐れずに、人びとの前に輝かせなさいと言うのです。

 この聖句にぴったりの出来事が、先日、宇部で起こりました。宇部教会で開催された「フランシスコ教皇来日感謝祭」で、教皇との出会いを体験した9人の方々が、みんなの前でその喜びや感動を分かち合ってくださったのです。話してくださった方たちは、幼稚園の給食の先生やパートタイムで働く主婦、老人ホームのシスターなど、ごく普通の信者で、世間的に見れば目立たないところにいる方たちでした。ところが、一人ひとりの分かち合いは、喜びと希望、力に満ち溢れ、まさに信仰の鏡とも言うべきものでした。どんなに勉強した神父でも、あれほどまでに感動的な話はなかなかできないでしょう。「ともし火をともして枡の下に置いてはいけない」とは、まさにこのことだと思います。わたしたち一人ひとりの心に宿った信仰の光は、勇気を出して人々の前に輝かせるとき、地の果てにまで希望や勇気、力を届けることができるのです。

 わたしたちは、自分のうちに宿った信仰の光、神さまがともしてくださったこのともし火を、過小評価しすぎているのではないかという気がします。わたしたちの心に希望と喜び、力をもたらしてくれたこの光は、わたしたちだけを照らすために与えられたものではないのです。もちろん、わたしたち自身を照らし、立ち上がる力を与えてくれる光ではあります。ですが、立ち上がったならば、今度はその光をみんなのために高く掲げることがわたしたちの使命なのです。

 たとえば、車いすの真人くんと一緒に教皇様と会った中村さんが分かち合いの中でこう言われました。

「家族の中でも、教会の中でも一番小さい存在だと考えていた真人のおかげで、わたしたちは教皇様のところへ連れていってもらえました。真人と共に歩んでいけば、わたしたちを素晴らしいところへ導いてくれると思いました。」

 この言葉は、今回の教皇来日のメインテーマ「すべてのいのちを守るために」を完成するものではないかとさえ思われます。すべての命は、神さまの目から見たとき限りなく尊いものであり、神さまからわたしたちに与えられた贈り物なのです。障害や病で苦しんでいる方々、社会の中で小さなものと見なされている方々に寄り添うとき、わたしたちは本当の幸せへと導かれるのです。中村さんを通して神さまが与えてくださったこの言葉は、聞く人たちの心に希望と力、勇気を与えることでしょう。

 他の方々の分かち合いも、一つひとつが本当に素晴らしいものでした。わたしたち一人ひとりの心を照らすために与えられた光は、全世界を照らすために与えられた光、全世界を照らすことができる光でもあるのです。その光を恐れずに高々と掲げることができるよう、この地上に神の栄光を輝かせ、人びとに希望と喜びをもたらす働き手となれるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(892)苦しみに寄り添う

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苦しみに寄り添う

モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親は(イエス)主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(ルカ2:22-32)

 幼子イエスを見たシメオンは、自分はようやく去ることができる、なぜなら「私はこの目であなたの救いを見たから」だと言います。イエスはまだ幼子ですから、人びとの病を癒したり、権威ある言葉で語ったりしていたわけではありません。おそらく、マリアの腕の中で「オギャー」と泣いているか、すやすや眠っているだけの赤ん坊だったでしょう。では、シメオンが見た「救い」とはいったい何だったのでしょう。

「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」というヘブライ人への手紙の中に、そのヒントがあるように思います。この箇所を読む限り、イエスがわたしたちを助けることができたのは、イエス自身が試練の中で苦しみ、人間の弱さをご自分の身をもって知っていたからからということになるでしょう。つまり、イエスは、人びとの苦しみに共感し、苦しみに寄り添うことによって人びとを救ったということです。イエスは、人びとの苦しみに徹底的に寄り添い、大きな愛で包み込むことによってわたしたちの心を癒してくださる神。そうすることで、わたしたちを苦しみから救ってくださる神なのです。

 この救いを実現するために、神は人間としてこの地上に誕生する必要がありました。人間の弱さを知り、苦しみに寄り添うためには、どうしても神が人になる必要があったのです。神が人になることを決断し、人として地上に生まれたならば、そのときこそ救いの業が始まったことになると言ってもいいでしょう。シメオンは、それを知っていました。だからこそ、人となった神であるイエスを見たとき、「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言ったのです。

 先日、心の病に苦しんでいる方々のカウンセラーとして働いている方から、こんな話を聞きました。さまざまな症例があり、薬なども開発されているが、結局のところ、どんな場合でも相手の話をそのまま聞いてあげるしかない。人間の心は、誰かに苦しい心の内を聞いてもらうことによってのみ癒されるのではないかというのです。確かにそうかもしれません。話を途中で遮られ、「あなたはいつもそうだ。そんな考え方だからいけないんだ」とか、「聖書にこう書いてあるだろう。だからこうしなさい」などと上から目線で言われても、「ああ、確かにわたしは間違っていました。救われました」ということには、なかなかならないのです。

 逆に、誰かが自分の話を途中で遮らず、最後まで親身になって聞いてくれるとき、わたしたちは心が軽くなり、苦しみが消えてゆくのを感じます。自分を否定せず、あるがままに受け入れてくれる人と出会うとき、わたしたちの心は、その人の愛の中で少しずつ癒されてゆくのです。心が癒されてゆく中で、わたしたちは自分自身の間違いを素直に認められるようになり、「神の子」として生まれ変わってゆきます。それが、「救われる」ということでしょう。神さまは、人間の心に生まれるそのような救いのプロセスをよくご存じだった。だからこそ、イエスを人間としてこの世界にお送りになった。わたしは、そのように思っています。

 イエスが、まったく無力でか弱い赤ん坊としてこの地上に来られたとき、この地上に救いが訪れました。わたしたちも、人間としての自分の弱さを知り、人びとの苦しみに寄り添うことによってイエスの救いの業に参加できるよう、そうすることでイエスの弟子となれるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(892)神の小羊

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神の小羊

 ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:29-34)

 イエスがやって来るのを見たヨハネは、「見よ、神の小羊だ」と言いました。「神の小羊」とは、神に捧げられる小羊のことです。ヨハネはきっと、イエスこそ神のため、人々のために自分のすべてを神に差し出す者、自分の命と引き換えに人々を罪から救い出す者だと言いたかったのでしょう。小羊のようにまったく無力なものとして神に自分を差し出し、そのことによって人を救う。それがイエスの使命だったのです。

 「見よ」とヨハネが言うからには、イエスの外見に、あるいは生き方そのものに「神の小羊」であることを理解させるものがあったのだろうと思います。例えば、イエスはどんな服装をしていたでしょうか。ぴかぴかのファッションに身を固め、貴金属をじゃらじゃらさせるというような姿であれば、人びとはイエスを見て「神の小羊だ」とは思わなかったでしょう。おそらくイエスは、清潔ではあってもあちこち擦り切れ、継ぎが当たっていてる、そんな庶民の服を着ていたのだろうと思います。自分を見せびらかすための服ではなく、大工として、あるいは教師として人々に奉仕するための服、自分を人々に差し出すための服を着ていたのです。

 イエスは、どんな態度で人に接したでしょうか。自分の用事を何よりも優先に考え、人から話しかけられても「忙しいんだから、後にしてください」と断るような態度、相手が悩み事を話しているのに「いや、わたしだってこんなに困っているですよ」と自分の苦労自慢をするような態度ではなかったと思います。自分のことは後にしても、相手のために自分を差し出す。自分の苦しいことは脇に置いても、相手の苦しみに耳を傾け、その苦しみに寄り添う。自分を徹底的に相手のために差し出してゆく、そんな態度だったに違いないと思います。イエスは、人びとのために自分のすべてを差し出す「神の小羊」だったのです。

 「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とヨハネが証言していますから、イエスは聖霊の存在を感じさせる方でもあったのでしょう。イエスは、苦しみを抱え、救いを求めてやって来る人を、愛の温もりで包む方、この人に見つめられただけで心の傷が癒される、この人のそばにいるだけで、心に喜びや安らぎが湧き上がって来る。そんな風に感じさせる方だったのではないかと思います。「神の小羊」として自分のすべてを神に差し出して生きたイエスを、神は聖霊の恵みによって満たしました。「神の小羊」として生きたイエスから、聖霊の恵みがこの地上にあふれ出したのです。イエスからあふれ出す愛の温もりの中で、新しい自分に生まれ変わってゆく。心に勇気と希望の火がともされる。聖霊による洗礼とは、そんな体験を指しているのではないかと思います。

 イエスと出会い、聖霊によって洗礼を受けたわたしたちにも、「神の小羊」としての生き方が求められています。イエスに倣って、謙虚な心で自分を神のため、人びとのために差し出す生き方が求められているのです。ずる賢い狐や貪欲な狼にならず、いつも「神の小羊」としての生き方を選ぶことができるよう、謙虚な心で聖霊の恵みを願いましょう。

 

バイブル・エッセイ(891)同じ人間として

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同じ人間として

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。(マタイ3:13-17)

 洗礼を受けるため罪人たちと共に列に並んだイエスに、ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と言いました。これはもっともな疑問だと思います。イエスは神の子、救い主であり、イエスご自身には罪などまったくなかったのです。それにもかかわらず、なぜイエスは洗礼の列にならんだのでしょうか。

 あるお医者さんから、こんな話を聞いたことがあります。このお医者さんは、とても優秀な外科医で、たくさんの人たちを癌から救ってきた方でした。ところが、40代後半にして、自分自身が癌になってしまったのです。早期の発見だったので命に別状はありませんでしたが、彼はこの体験を通して、自分の根本的な思い違いに気づいたと言います。自分はこれまで「自分は優れた医者、この人はかわいそうな患者さん。だから助けてあげる」という態度で患者さんと向かい合ってきた。それでたくさんの人たちを助けてきたし、感謝されたが、当然のことをしたとしか思ってこなかった。それが、今度のことで、自分もいつ病気になるかわからない弱い人間であり、自分と患者さんの間に壁はないことに気づいた。今では「この人もわたしも、同じ弱い人間。苦しんでいるなら、放って置くことはできない」という気持ちで患者さんに接している。患者さんを助け、感謝されたときには、こんなわたしが誰かを救うことができたことに心から感謝するようになったというのです。自分自身の病気の体験を通して、彼がより親身に患者さんと関わる医師に成長したことは間違いありません。

 イエスが罪びとの列に並んだこと、さらにその後、荒れ野で多くの誘惑を受けたのも、きっと似たようなことだったのだと思います。イエスは、罪人たちの列に並ぶことで、自分もたくさんの弱さを抱えた人間の一人であることをしっかりと受け止めたのです。イエスは、「わたしは神の子だ。なんで罪人の列に並ぶ必要がある。お前がわたしから洗礼を受けろ」とか「わたしがお前たちを癒してやる」というような態度ではなく、「わたしも弱い人間の一人として、罪人の列に並ばせてほしい。洗礼の恵みを受けたい」という態度で生きることを選んだと言ってもいいでしょう。イエスは、上から目線で人を癒すのではなく、「同じ弱い人間同士。あなたが苦しんでいれば、放って置くことはできない」という思いでわたしたちを癒す、「魂の医師」になることを望まれたのです。

 そんなイエスに、天から「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声が響きました。神がイエスを人間として地上に送り出したのは、まさに「同じ人間として」わたしたちに寄り添い、わたしたちを愛するためだったのです。わたしたちは、同じ人間でありながら、つい相手を見下し「自分は健全。あの人は病人」、「自分は善人。あの人は罪人」というような態度で相手に接してしまいがちです。イエスの謙遜にならい、どんなときでも「たくさんの弱さを抱えた同じ人間同士」という姿勢を忘れずに人と接することができるよう祈りましょう。

 

バイブル・エッセイ(890)起きよ、光を放て

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起きよ、光を放て

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群ミディアンとエファの若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。(イザヤ60:1-6)

「起きよ、光を放て」と、神は預言者イザヤを通して人々に語りかけました。暗闇が地を覆う中で、イスラエルの上に主の栄光が輝き出た。その光を受け、この地上を照らせということでしょう。主である神の栄光は、神を信じて生きる私たちを通してこの地上に輝くのです。

 そのように、主の栄光をこの地上に輝かせた人たちが、教会の歴史の中に無数にいます。一番よい例は、アウシュビッツの殉教者、コルベ神父でしょう。コルベ神父は、処刑されようとしている仲間の身代わりになり、餓死室に入れられました。それだけでなく、餓死室に入ってからも仲間たちを励まし、最後のときまで神に祈りを捧げ続けたということです。飢餓の中で死んでゆくことが確実な状況にあっても、コルベ神父は神にすべてを委ね、最後まで希望を捨てることがありませんでした。その姿は、同じ部屋に入れられた仲間たちを励まし、この地上に神の栄光を輝かせました。その光は語り継がれ、今日に至るまで多くの人たちの心を照らし、希望を与えています。

 有名な聖人たちだけではありません。わたしの友人の一人は、20代で癌の診断を受け、苦しい闘病生活を送ることになりました。再発し、転移が発見され、状況は次第に悪くなってゆきましたが、彼女は最後まで希望を失うことがありませんでした。げっそり痩せて髪も抜け、快復の見込みも立たず、自分が一番苦しい状況のはずなのに、同じ病室の仲間を気遣い、優しい笑顔を浮かべ続けたのです。「すべては神さまの手の中にあります。心配はいりません」というのが、彼女の口癖でした。そんな彼女の姿は、同じ病室にいた人たちの心を励ましました。神様に希望を置いて生きる彼女の姿を通して、この地上に神の栄光が輝いたのです。彼女は天に召されましたが、あの頃の彼女の姿はわたしたちの心に刻まれ、今もわたしたちの心を照らしています。

 今日は、「主の御公現」の祭日。東の国の王たちが、遠くに輝く星の光に導かれて、幼子イエスを訪問したという記念日です。異邦人であるこの王たちを引き寄せたのと同じ光、主の栄光の輝きを地上に現すことは、わたしたちに与えられた大切な使命です。コルベ神父がそうであったように、若くして癌で亡くなった友人がそうであったように、どんな困難に直面しても諦めず、神に希望を置いて生きる人の姿は、周りにいる人たちの心を照らし、希望を与えます。その光を見た人は、「なぜあの人は、こんなに穏やかな笑顔を浮かべられるのだろう」と問ううちに、その光の源がイエス・キリストであることに気づくのです。

 自分で自分を輝かせる必要はないし、自分で作った光では人々の心を惹きつけることができません。地上の栄光によって自分で自分を輝かせたとしても、それは人々に希望を与える光にはならないのです。苦しい状況にありながらも、神の手にすべてを委ねて生きる人を通してだけ、天上の光、主の栄光がこの地上に輝きます。コルベ神父のように、先ほど紹介した友人のように、神の手にすべてを委ねて生きることによって、この地上に主の栄光を輝かすことができますように。

バイブル・エッセイ(889)濃密な時間

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濃密な時間

(そのとき、羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、(彼らは、)この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:16-20)

 聞いていた他の人たちは、羊飼いの話を不思議がっただけでしたが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカは伝えています。マリアは、出来事を何度も思い返し、その意味を神に尋ねることで、心に深く刻んでいったのでしょう。マリアは、自分の身に起こったことから神のみ旨を知り、学びながら成長していったのです。

 今日は1年の始まりですが、このような年の節目を迎えるたびごとに、「また1年があっという間に過ぎてしまった」という感慨を抱きます。「歳をとるごとに、1年が過ぎるのが速くなる」という言葉をよく聞きますが、確かにそんな感じもします。「5歳の子どもにとって1年は人生の5分の1だが、50歳の人には50分の1だから、短く感じるのは当然」という説もあるそうですが、子どもにとってはすべてが新鮮なので、時間を長く感じる。大人になると、何でも同じようなことばかりなので、時間を短く感じるということは確かにありそうです。

 わたしにとってこれまで一番長かった時間は、修道院に入ってすぐの頃に行われる修練の2年間でした。この2年間、わたしたちは外部との接触をほとんど絶たれ、修道院にこもって祈りと労働の日々を送ります。一人で自由に外出することもできないし、お小遣いもありません。わたしのように外部と接触することが大好きな人間にとっては、本当に苦しい時間でした。毎日カレンダーで日にちに×を付け、「もう何日たった、あと何日で終わる」というようなことを考えていました。

 時間が長く感じる一つの要因は、その生活にうまく溶け込めていないこと、その生活を楽しめていないことでしょう。毎日を楽しんでいれば、「何日過ぎた」などと考える時間もなく、あっという間に月日が流れてゆくはずです。楽しんでいるときに時間は早く流れ、つまらないときに時間はゆっくり流れるということは、確かに言えると思います。これは、最初に紹介した考え方とは逆のことです。この考えで言えば、子ども時代はつまらなく、歳をとればとるほど楽しいということになりますが、どうもそれは違うようにも思えます。時間の流れというのはまったく不思議です。

 一つはっきり言えるのは、修練の期間には時間が濃密に流れていたということです。日々起こる出来事と格闘し、深く関わっていた。祈りの中で必死に神のみ旨を探しながら、一日一日を生きていた。それは間違いありません。短い期間で大きな変化に適応し、成長した。だからこそ、時間が長く感じたとも思われます。そう考えれば、時間の流れに年齢は関係ありません。困難や苦しみの中で懸命に成長しようとしているときには、時間はゆっくりと流れ、長く感じられるのです。何歳になっても、困難にチャレンジし続け、成長し続ける人にとって、1年は十分に長いのです。

 聖母にとっても、イエスと共に歩む日々は、ときに困難と苦しみに満ちたものでした。「一日一日の出来事を思い巡らし、心に納めてゆく」日々は、ただ楽しくてあっという間に流れ去るもではなく、退屈だから長く感じて仕方がないものでもなく、一日一日がしっかり心に刻まれてゆく濃密な時間だったのではないかと思います。聖母にならい、一日一日を心に刻んで、濃密な日々を過ごすことができるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(888)家庭の平和

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家庭の平和

 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。(コロサイ3:12-17)

「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」と、パウロは人々に語りかけました。パウロがここで言う「一つの体」はキリスト者の共同体のことですが、そのまま家庭にも当てはまるでしょう。キリストの平和を実現するために、わたしたちは一つの家族として集められたのです。

 他者と和解し、世界にキリストの平和を実現するためには、まずわたしたちが自分自身の心にキリストの平和を実現する必要があります。自分自身に対してネガティブになってるとき、自分の弱さや醜さを受け入れることができず、自分を責めているとき、わたしたちは周りの人たちに対してもネガティブな態度を取ってしいがちだからです。自分の弱さや醜さを受け入れ、それでもわたしの人生は生きるに値する、素晴らしいものだと思えない限り、わたしたちは他者を受け入れることもできないのです。神さまは、これほどまでに弱く醜いわたしたちをゆるし、日々たくさんの恵みを注いでくださいます。こんなわたしたちにも、やりがいのある使命を与え、御国のために用いてくださるのです。そのことに気づいて感謝し、自分の人生と和解する。それが、キリストの平和の出発点です。

 ですが、わたしたちは、一人ぼっちでキリストの平和を実現することができません。どんなに神さまから愛されている、自分の命はかけがえのない大切なものだとわかっていても、ときどき誰かから実際に大切にしてもらわないと、その確信を守り続けることができないのです。そのために、神さまはわたしたちに家庭を与えてくださいました。会社や学校などで失敗し、叱責されて落ち込んで家に帰っても、家族の温もりや笑顔の中で、わたしたちは自分の命の価値を思い出すことができるのです。誰かが落ち込んでいるとき、キリストの平和を失っているときは、他の誰かがその人を支える。そうすることによって、互いの心にキリストの平和を実現してゆく。そのために家庭が与えられたのです。

 家族の間で一番よくないのは、「こんなこともできないのか」と相手の弱さを責め、「なぜ、こんな人と一緒にいなければならないのか」と嘆くことです。キリストの平和は、それらの不平不満からわたしたちを完全に解放します。互いの命の大切さに気づくとき、わたしたちは人間の不完全さを受け入れ、「この人といられることは神様からの贈り物だ」と感謝できるようになるのです。互いに愛し合うことで、家庭に、そして自分自身の心にキリストの平和を実現できるように、その平和を学校や職場、社会全体にまで広げてゆけるように祈りましょう。