フォト・ライブラリー(599)カルカッタ・ダージリン巡礼2020②カルカッタからチッタガールへ

フォト・ライブラリー(599)カルカッタ・ダージリン巡礼2020②カルカッタからチッタガールへ

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ビクトリア女王の治世を記念して20世紀初頭に建てられた、ビクトリア・メモリアル。イギリス領インド帝国の首都だったカルカッタの面影を、現代に伝える建物です。

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現在は、イギリス統治時代のカルカッタの繁栄を伝える博物館になっています。

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タージマハルを意識して大理石で建てられたビクトリア・メモリアル。「東洋のパリ」と言われた時代のカルカッタを感じさせてくれます。

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花壇ではダリアが満開を迎えていました。

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阪急交通社カルカッタ・ダージリン巡礼団一同で記念撮影。

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東洋でも屈指の規模をと言われるカルカッタ、ハウラー駅。カルカッタの玄関口です。

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駅前の人混み。近隣の町や村から、毎日、数百万人がカルカッタに通ってきます。

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1943年に開通したカルカッタのシンボル、ハウラー橋(656m)。ワイヤーを使わず、鉄骨だけで組み上げられています。

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それぞれの荷物を運んで橋を渡る人びと。カルカッタを象徴する場所です。

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個人的には、この橋を渡ると「カルカッタに来たなぁ」という実感が湧き上がってきます。

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ひときわ大きな荷物を頭に乗せた人。荷物の中身は、神様に捧げる花のようです。

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橋のたもとにある花市場。神様に捧げるための花、マリーゴールドやハイビスカスが売られています。

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橋のたもとに開かれた市場。さまざまな品物が売られています。

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リンゴやみかん、ブドウなどを売っている女性。中には見たことがないような果物もあります。

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ヒンドゥーの神々や、白馬、ふっくらした赤ん坊など、インドで人気があるモチーフを並べたポスター屋さん。

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夕陽を浴びたハウラー橋。カルカッタのシンボルにふさわしい、堂々たる佇まいです。

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カルカッタを離れ、チッタガールにあるハンセン病センターへ。

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チッタガールは、カルカッタから車で2時間ほどの距離にある小さな町。のどかな雰囲気が漂っています。

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昔から、乳牛を飼っている家が多い地域です。

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燃料となる木材が少ないインドでは、乾燥させた牛糞はとても貴重な燃料。こうして壁に貼り付けて干しています。

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チッタガールの街角の風景。人々の生活の匂いがします。

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学校でしょうか。建物の中から子どもたちが手を振ってくれました。

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マザー・テレサが創立したハンセン病センター「ガンジー・プレム・ニバス」。ハンセン病患者に救済の手を差し伸べた、マハトマ・ガンジーを記念して名づけられたそうです。

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線路を渡る女性たち。サリーの色が鮮やかです。

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センターでは、さまざまな種類のリネンが作られ、各地のマザー・テレサの施設に供給されています。

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シスターたちが着ているおなじみのサリーも、ここで作られています。

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糸を紡いでいる女性。昔ながらのやり方です。

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センターの中には養殖池もあり、魚が飼われてます。

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センター職員の親子。かわいらしい赤ちゃんです。

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街角で出会った子どもたち。みんな元気いっぱいです。

 

フォト・ライブラリー(598)カルカッタ・ダージリン巡礼2020①マザー・ハウスとロレット修道会

カルカッタ・ダージリン巡礼2020①マザー・ハウスとロレット修道会

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人力車やサイクルリキシャー、オートリキシャー、タクシーなどが行き交うカルカッタの街。9年ぶりに、カルカッタに行ってきました。

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大通りを渡るサイクルリキシャー。

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さまざまな容器を集めて歩く人。再利用するのでしょうか。

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外壁工事中の「神の愛の宣教者会」本部修道院マザー・ハウスとローワーサーキュラーロード。

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マザー・ハウスの入り口に続く小道と工事中の外壁。インドでは、工事現場の足場は竹で組まれます。

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マザー・ハウスの1階にあるマザー・テレサの墓。かつて食堂だった部屋の、床をはがして埋葬されました。

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マザーがかつて働いていた、エンタリーにあるロレット会の学校へ。

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マザーが働いていたロレット・コンベント・スクール。地理や歴史の先生だったそうです。

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ロレットの生徒たち。みんなきれいな制服を着ています。

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花壇には花が咲き乱れ、まるで別世界のようです。

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校庭の一角にあるチャペル。マザーもここで祈ったのでしょう。

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マザーが最初に入ったスラム街、モティジル。電気や井戸も整備され、生活はだいぶ改善されているようです。

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街角の風景。子どもたちがあちこちで遊んでいます。

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洗濯物をいっぱいに干した家。まさに満艦飾ですね。

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スラム街で出会った子どもたち。

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親指を立てて、「いいね」のポーズ。水色の壁は、あちこちで見かけます。

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バイクの前後に子どもを乗せたお父さん。優しい笑顔です。

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集まって来た子どもたち。写真を撮ってもらいたくて仕方がないようです。

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左側がロレットの学校、右側がモティジルです。

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ロレットの修道院を出たマザーが移り住んだ、クリーク・レーンのゴメス家。この3階で「神の愛の宣教者会」が誕生しました。

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1950年頃に撮影された写真。後列の中央にいるのがマザー・テレサ。その右隣がシスター・ガートルード(医師なりマザーの最期を看取った)、さらにその隣がシスター・アグネス(マザーの「もう一人の自分」と呼ばれた最初のシスター)です。

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マザーやシスターたちも登った階段。現在この家には、マザーを受け入れたマイケル・ゴメスさんのお孫さんが暮らしています。

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街角の風景。人力車(リキシャー)は、荷物の運搬もします。

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レンガを積み重ねている人たち。道路工事によく使われるレンガです。

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交差点を行き交うオートバイ。以前よりオートバイが増えたような気がします。逆に、二階建てバス(ロンドンから運ばれた中古)を見かけなくなりました。

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カルカッタ最大の市場、ニューマーケット付近。

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レンガの壁のニューマーケット。たくさんのおもちゃが並べられていました。
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人力車引きのおじさん。裸足の人が多くて驚きます。

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カルカッタの街に、すっかり溶け込んだ人力車。引いている人の多くは、近隣の農村から出稼ぎに来た人たちです。

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これもカルカッタの名物、黄色いタクシー。インドの国民車、アンバサダーが使用されています。

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カルカッタの名物、交通渋滞と騎馬警察。渋滞の中をパトロールするには、馬がちょうどいいようです。

バイブル・エッセイ(896)太陽のように輝く

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太陽のように輝く

 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)

 弟子たちの前でイエスの姿が変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と福音書は記しています。「太陽のように輝く」とは、いったいどんな顔だったのでしょう。きっと喜びと力に満ちあふれた笑顔、周りの人たちの心を励まし、希望で満たすような笑顔を浮かべていたのではないかとわたしは思います。高い山の上で祈りを捧げ、神の手にすべてを委ねたとき、父なる神の愛がイエスの心を満たしました。そのとき、イエスの心は喜びと力で満たされ、イエスの顔は太陽のように輝いたのです。

 マザー・テレサがよく、「あなたたちは、貧しい人たちのために太陽の光となりなさい」と言っていたことを思い出します。しょぼくれた顔やつまらなそうな顔で、神の愛を伝えることはできない。神の愛を伝えたいなら、いつも輝くような笑顔を浮かべてスラム街の人々を訪ねなさいということです。

 では、どうしたらそんな笑顔を浮かべられるのでしょう。「太陽の光」というマザーの言い方にヒントがあると思います。わたしたちの笑顔は、太陽の光であって、太陽そのものではないのです。太陽は、わたしたち一人ひとりのうちにおられるイエス・キリストに他なりません。イエス・キリストは、どんなときでもわたしたちのうちにいて、まばゆい命の光を燃え上がらせ、太陽のように輝いておられます。イエス・キリストこそ、わたしたちのうちに燃え上がり、わたしたちを生かす命の炎であり、神が与えてくださった不滅の命、永遠に輝き続ける太陽なのです。

 わたしたちの使命は、その光をさえぎらないこと。喜びと力に満たされ、全身から太陽の光を放つことに尽きると言っていいでしょう。自分の身の周りで起こることに不安や恐れを抱くとき、わたしたちの顔は曇ります。神の愛を信じられなくなるとき、わたしたちの顔は曇り、太陽の光を覆い隠してしまうのです。いらだちや怒り、憎しみによって心がかき乱されているとき、わたしたちの顔は暗くなります。ネガティブな感情に引きずられ、呑み込まれてしまうとき、わたしたちの顔は暗くなり、太陽の光をさえぎってしまうのです。

 人びとに太陽の光を届けるために何より必要なのは、神への信頼であり、神にすべてを委ねる心です。神を信じてすべてを委ねるとき、わたしたちの顔の曇りは消えます。雲の間から太陽の光が射すように、喜びと力に満ちた笑顔があふれだすのです。神の愛に心を開くとき、いらだちや怒り、憎しみの闇は消え去り、わたしたちの全身から、すべてを優しく包み込む愛の光が輝きだすのです。

 わたしたち一人ひとりの中に、イエス・キリストという太陽が燃えている。そのことを忘れないようにしたいと思います。どんな試練が訪れたとしても、イエス・キリストはわたしたち一人ひとりの中で太陽のように輝き続けているのです。その光をさえぎってしまうことがないように、試練の中にいるときにこそ、太陽のように輝く笑顔で互いを照らし合うことができるように祈りましょう。

※Youtubeから音声でお聞きになれます⇒

youtu.be

【霊的聖体拝領の勧め】

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霊的聖体拝領の勧め
 ヨハネ・パウロ2世は回勅『教会にいのちを与える聖体』で「ミサにあずかっても聖体拝領しないときは、霊的に拝領することができます」というイエスの聖テレジアの言葉を引用し、霊的聖体拝領を勧めています(34)。ミサの中止などによってやむを得ず聖体拝領ができない場合も、霊的聖体拝領が勧められます。霊的聖体拝領に決まった形式はありませんが、以下の聖アルフォンソ・リゴリの祈りがよく知られています。主日であれば、その日の聖書箇所をよく味わってから、この祈りを唱えてはどうでしょうか。
わたしのイエスよ、
最も祝福された秘跡のうちに
あなたがおられることを信じています。
わたしはあなたを何よりも愛し、
わたしの魂にお迎えしたいと望んでいます。
いまは秘跡によってあなたを受けることができませんから、
せめて霊的にわたしの心に来て下さい。
わたしはすでにあなたが
わたしの心におられるようにあなたを抱きしめ、
わたしのすべてをあなたと結びつけます。
わたしがあなたから離れることを
おゆるしにならないでください。アーメン。
 

バイブル・エッセイ(895)困難に打ち勝つ力

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困難に打ち勝つ力

 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:1-11)

「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた」とマタイ福音書は記しています。聖霊は、あえてイエスを荒れ野に導き、そこでイエスを悪魔と対峙させたというのです。聖霊はなぜ、そのようなことをしたのでしょう。

 今年の四旬節は、わたしたちにとって「荒れ野」での四十日になるかもしれません。新型コロナウィルスによってさまざまな困難が襲いかかり、地域によっては公開のミサさえ困難になっているからです。困難が襲い掛かるとき、わたしたちの心に誘惑もやってきます。悪魔がやって来て、自分さえ助かればいいというエゴイズムや、「神はなぜこのようなことをお許しになるのか」といった神への不信感をわたしたちの心に掻き立てようとするのです。

 たとえば誰かが咳き込んでいるとき、本来ならば「どうしたの。だいじょうぶ?」と労りの声をかけるのが兄弟姉妹としてふさわしい態度でしょう。ですが、未知のウィルスがはやり始めると、「怖い。近寄らないで」と言いたくなることがあります。相手を労わる心を、自分だけは助かりたいという思いが追い払ってしまうのです。「相手のことなんか心配している場合じゃない。自分を守れ」という悪魔の誘惑に、まんまと乗せられると言ってもいいでしょう。こうしてわたしたちの間に、互いへの不信感や失望、いらだちが広がってゆきます。悪魔の誘惑が、神の愛に勝利するのです。

 もちろん、自分を守ることも大切です。ですが、自分さえよければいいという考えは、互いに愛し合うことを基本とするイエスの教えに明らかに反しています。マスク、手袋、手の消毒などふさわしい予防措置をとった上で、病気で苦しんでいる人がいれば、その人に助けの手を差し伸べる。医療の支援を受けつつ、互いに助け合いながら病気の苦しみに打ち勝ってゆく。それだけが、この病気に打ち勝ち、悪魔の誘惑に打ち勝つ唯一の方法ではないかと思います。

 自分だけが助かればいいという考えがわたしたちの心を支配するようになれば、たちまちマスクはなくなり、医療現場は混乱し、病気の人は放置され、かえって病気の蔓延を招くことになるでしょう。それこそ、悪魔の思うつぼなのです。悪魔に打ち勝ち、病気に打ち勝つことができるのは、最終的には愛だけなのです。

 病気の困難の中で、悪魔はわたしたちに「神なんか信頼できない。神がいるなら、なぜこんなことが起こるんだ」ともささやきかけます。もし誘惑に乗れば、わたしたちは最後の希望を失うことになるでしょう。どんな困難にあっても、神が共にいて、わたしたちを必ず救いへと導いてくださる。それこそが、わたしたちの最後の希望であり、生きるための力なのです。もしミサに出られなかったとしても、祈りの中でミサの恵みに与ることはできます。ミサからあふれ出す恵みは全地を満たすほど豊かなもの。問題は、わたしたちが、心を開いてそれをしっかり受け止められるかどうかなのです。

 悪魔の誘惑と対峙する中で、わたしたちは自分にとって一番大切なものが何であるか、身をもって知ってゆきます。聖霊がイエスを荒れ野に導いたのも、そのためだったと考えていいでしょう。病気のみならず、あらゆる困難に打ち勝ち、乗り越えてゆくための力は、わたしたちの心に宿った神の愛だけであること。何があっても、神はわたしたちを見捨てないということ。この四旬節に、そのことをしっかり心に刻むことができるよう祈りましょう。

※このブログに掲載中の「バイブル・エッセイ」から、選りすぐられた40篇を収録したエッセイ集『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』が刊行されることになりました。わかりやすい言葉で、神さまの愛をまっすぐ心に届けます。どうぞお楽しみに。教文館刊 3月9日発売予定定価 1100円(税込み)

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バイブル・エッセイ(894)愛の誓い

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愛の誓い

「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイ5:33-37)

「一切誓いを立ててはならない。…あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」とイエスは言います。誓いを立てたところで、人間は自分の心でさえ思うままに動かすことはできない。そのときそのときで、神のみ旨に適う生き方をしなさい。神のみ旨に適うことについては「然り」、反することにはきっぱり「否」と言える確かな信仰を願いなさいということでしょう。

 誓いを立てても、それだけではあまり意味がないということは、たとえば結婚の誓いのことを考えればよくわかるでしょう。どれほど力強く「絶対に君を裏切らないよ」「一生愛し続ける」などと誓っても、その気持ちをいつまでも持ち続けられるという保証はどこにもありません。人間の心は日々、変わってゆきますし、他にもっと心を惹かれる人が現れる可能性だってあるのです。

 大事なのは、大げさな誓いの言葉よりも、その誓いのもとになる相手への思いでしょう。「この人は、神さまが与えてくださったかけがえのない人。この人と共に生きること以外、わたしの幸せはない」と心の底から思っていれば、決して相手を裏切ろうとは思わないし、相手を一生大事に守り抜くことができるでしょう。相手への思いが深ければ、そのときどきで、相手を裏切るようなことについて「否」ときっぱり断れるのです。誓いよりも大切なのは、その根底にある愛の深さだと言っていいでしょう。

 逆に言えば、然りは然り、否は否ときっぱり言い続けることこそが、愛を守ることだとも言えるでしょう。誘惑や迷いは必ずやってきます。そのときに、それらをきっぱり退ける。それこそが、愛を守るということなのです。そのときどきに、自分にとって一番大切なものは何かを確かめ、迷わずに誘惑を退け続ける。その結果が、永久に変わらぬ愛であり、揺るぎのない結婚の絆なのです。

 結婚だけでなく、すべての誓いについて、同じことが言えると思います。大切なのは、誓いの言葉そのものよりも、その人の心に宿った愛の深さなのです。神さまに対して忠実を誓うなら、神さまへの愛の深さが問われるし、信徒に奉仕を誓うなら、信徒への愛の深さが問われます。口先だけの誓いの言葉には、ほとんど意味がないのです。

 神さまを心の底から愛し、神さまこそが自分にとって何よりも大切な方だと深く自覚している人は、どんな誘惑がやって来ても迷うことがありません。きっぱり「否」と退けて、ぶれないまっすぐな人生を歩み続けることができるのです。相手の大切さに気付くことによって、日々相手へ愛を深めてゆくことができるように、どんなときでも然りは然り、否は否と答えられるように心から祈りましょう。

※このブログに掲載中の「バイブル・エッセイ」から、選りすぐられた40篇を収録したエッセイ集『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』が刊行されることになりました。わかりやすい言葉で、神さまの愛をまっすぐ心に届けます。どうぞお楽しみに。教文館刊 3月9日発売予定定価 1100円(税込み)

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【新刊のご案内】あなたはわたしの愛する子

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『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』

このブログに掲載中の「バイブル・エッセイ」から、選りすぐられた40篇を収録。わかりやすい言葉で、神さまの愛をまっすぐ心に届けます。どうぞお楽しみに。
教文館刊 3月9日発売予定

定価 1100円(税込み)

※現在、イーショップ教文館にて予約受付中

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