こころの道しるべ(17)十分に立派

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十分に立派

大きなストレスが
のしかかっているときは、
ただ普通に
暮らしているだけでも疲れます。
そんなときには、
周りの人を思いやりながら、
普通に暮らしているだけで
十分に立派なこと。
何か特別なことをしようと、
あせる必要はありません。

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バイブル・エッセイ(913)永遠の命を生きる

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永遠の命を生きる

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハ6:51-58)

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」とイエスは言います。キリストの肉であり、血である御聖体を頂くとき、わたしたちはキリストの命と一つに結ばれ、キリストの愛に満たされて永遠の命に導かれてゆくということでしょう。深い祈りの中で御聖体を頂くとき、わたしたちの人生は、キリストと共に自分のすべてを神に差し出す人生。自らの命を十字架につけることによって、永遠の命に移されてゆく人生へと変容するのです。

 食べたり、飲んだりすることによって、わたしたちは食べた物、飲んだ物と一つに固く結ばれ、結ばれることによってそこから命を得ます。たとえば、わたしは近頃、机に向かって仕事をするときにインド土産のダージリンティーを入れて飲んでいますが、一杯の紅茶によって、心がインドの大地、インドの人々と確かに結ばれてゆくのを感じます。作業をしたり、別なことを考えたりしながらではいけません。仕事の手を止め、紅茶の香りを深く吸いこみながら、インドを思い起こす時間が大切です。ヒマラヤの丘陵地帯を覆って広がる青々とした茶畑、そこで懸命に働く人々、すべてを包み込むように見守る世界第3位の高峰カンチェンジュンガ。それらを思いながらほんのり苦みのある紅茶を飲むとき、わたしは心も体もインドと結ばれ、インドの大自然の中に宿った神の命、働く人々の中に宿った神の命と一つに結ばれてゆくのです。そのとき、わたしの心は安らぎに満たされ、また仕事を頑張ろうという力が湧き上がってきます。

 聖体拝領は、食べたり飲んだりすることによって神の命とつながってゆく究極の形だと言っていいでしょう。他のことを考えるのを一切やめ、イエスの生涯と言葉、それらを通して余すところなく示された神の愛の偉大さを思いながら御聖体を頂くとき、わたしたちは心も体もイエス・キリストと固く結ばれ、キリストの命と一つに結ばれてゆくのです。普通の食事と決定的に違うのは、キリストの命と結ばれるとき、わたしたちの心は貧しい人々、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人々を思い、その人たちを何とか助けたいと願うキリストの愛で満たされるということです。キリストの愛に満たされ、キリストと共に、助けを求めている人たちのもとに出かけてゆかずにいられなくなるのです。キリストの愛に突き動かされ、人々のために自分を差し出す中で永遠に変わらないものと結ばれてゆく。肉体が滅びても決して滅びない、永遠の愛の世界へと移されてゆく。それが、「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」という言葉の意味ではないでしょうか。

 コロナ禍の中にあって、この教会でも半分の方は今日、ミサに参加することができません。ですが、心の中で御聖体を味わい、御聖体の恵みを頂くことはできます。大切なのは、聖書に語られたイエスの言葉をしっかり受け止め、イエスの生涯を隅々まで満たした神の愛を感じ取ることです。そうすることで、心を愛で満たされ、宣教の熱意に駆り立てられる聖体拝領の恵みに霊的に預かることができるでしょう。御聖体の恵みを通してすべての人が永遠の命へと導かれるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(16)人間同士

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人間同士

「かわいそうな人だから、
助けてあげる」という奉仕は、
善意の押し付けになってしまいがち。
「この人もわたしも、
お互い弱い人間同士。
放っておくわけにはいかない」
と思って奉仕するとき、
その奉仕は愛と呼ばれます。

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バイブル・エッセイ(912)励まし合って生きる

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励まし合って生きる

兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(二コリ13:11-13)

「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」とパウロは兄弟姉妹に呼びかけました。そうすれば、「愛と平和の神」がいつも共にいてくださる。三位一体の神が、いつも共にいて守ってくださるというのです。

「喜びなさい」とは、どんなときでも神への感謝を忘れるなということでしょう。神への感謝を忘れ、自分の力で、自分の思い通りにすべてを動かそうとし始めるとき、わたしたちは喜びを失い、不平不満を言い始めます。この世界には、自分の思った通りにならないことが無数にあるからです。神の前に跪き、すべてが自分の思った通りにならなかったとししても、今日1日、生かされていることだけで感謝する。衣食住が足り、家族が健康であることに感謝する。そのような時間の中で、わたしたちの心は喜びに満たされてゆきます。「喜びなさい」とは、神を思い出し、神に感謝しなさい。謙虚な心で生きなさいということなのです。

「完全な者になりなさい」とは、神のみ旨に反するようなことをして、神を悲しませるなということだと考えたらいいでしょう。何一つ間違いを犯すなということではありません。それは不可能なことであり、神は人間に不可能なことを要求しないのです。パウロが言う「完全な者」とは、間違いを犯したなら、すぐに過ちを認めて謝ることができる人。相手を容赦なく裁いて切り捨てるようなことをせず、むしろ相手の弱さを受け入れ、寄り添うことができる人のことだと考えたらよいでしょう。「完全な者」とは、謙虚な心で、神のみ旨のままに生きられる人のことなのです。

「励まし合いなさい」とは、希望を分かち合うということでしょう。単に、「頑張れ」「挫けるな」「わたしがついてるぞ」と互いに言い合うということではありません。どんなに苦しいことがあったとしても、わたしたちにはイエス・キリストがついている。神のみ旨のままに互いに愛し合い、苦しんでいる隣人たちに手を差し伸べようとし続けていれば、道は必ず開かれる。その確信、その希望を分かち合うということです。どんなに強い人でも、一人ぼっちでこの希望を持ち続けることはできません。共同体の愛の中で神の存在を感じるときにだけ、わたしたちはこの希望を持ち続けることができるのです。「励まし合う」とは、皆が同じ希望で結ばれるということ。「思いを一つにする」ことだと言っていいでしょう。

 一人ひとりが神の前に謙虚な心で生き、自分の思った通りにならない人や何か間違いを犯した人を受け入れ、希望を分かち合いながら思いを一つにして生きるとき、わたしたちの間に平和が実現します。つまり、目の前にどんな試練が立ちはだかったとしても、恐れや不安によって心を乱すことなく、乗り越えてゆくことができるようになるのです。

「喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」というパウロの言葉は、いまこのコロナの時代を生きるわたしたちのために語られた言葉であるかのようにさえ思えます。この言葉を胸に刻み、互いに愛し合い受け入れ合う三位一体の愛の中で、この試練の時を乗り越えられるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(15)神さまとつながる

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神さまとつながる

本当に追い詰められたときには、
「神さま、なぜわたしを
こんな目にあわせるのですか」
と神さまを罵るのも一つの祈り。
大切なのは、
一人ぼっちで苦しまないこと。
たとえ罵りによってでも、
神さまとつながっていれば、
必ず道は示されるでしょう。

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こころの道しるべ(14)半分に聞く

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半分に聞く

ストレスが溜まっているときは、
言葉が過激になりがち。
「好みじゃない」が「大嫌い」になり、
「あんなものない方がまし」と
エスカレートするのです。
そんなときは、相手の言葉を
半分にして聞きましょう。
言葉の半分はストレスなのです。

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バイブル・エッセイ(911)愛を伝える使命

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愛を伝える使命

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」、2000年前に弟子たちに語られたイエスのこの言葉は、いまわたしたちに向かって語られている言葉でもあります。聖霊降臨を祝う今日、わたしたちはイエスから大いなる使命を与えられ、世界の隅々にまで派遣されてゆくのです。

 イエスから与えられた使命とは、いったい何でしょう。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というイエスの言葉に、わたしたちの使命がはっきりと示されています。わたしたちの使命、それはどれほど弱く、罪深いわたしたちであっても、受け入れ、ゆるしてくださる神さまの愛を、すべての人々に伝えることなのです。「自分なんかがゆるされるはずがない。生きている資格がない」と思い込み、自分を責めている人たち。絶望の闇の中で苦しんでいる人たちのところに行って、「そんなことはない。神さまは、弱くて不完全なわたしたちを、あるがままに受け入れ、ゆるしてくださるかた。わたしのような人間でさえゆるされたのだから、あなたがゆるされないはずがない」と伝える。喜びと力に満ちた笑顔で、その人たちの手を握り、その人たちの顔を見つめる。それが、わたしたちに与えられた使命なのです。

 このコロナ禍の中にあっても、その使命は免除されたわけではありません。むしろ、こんな時だからこそ、わたしたちは世界の果てまで神さまの愛を届ける必要があるのです。もちろん、自分が感染し、ウイルスを他の人に広めるようなことは絶対にあってはなりません。直接に会って伝えることは、難しい場合もあるでしょう。ですが、福音を伝える方法は、他にいくらでもあります。たとえば電話。しばらく教会を離れている人、病気や高齢で教会に来られない人などに電話して、近況を伝え合う。それだけでも、わたしたちは相手に神さまの愛、神さまのゆるしを伝えることができます。手紙を書くのもいいでしょうし、きれいなカードを添えるのもいいでしょう。インターネットを使った宣教の試みも、各地の教会で行われています。コロナ禍の中にあっても、わたしたちにできることはいくらでもあります。不安や恐れにとらわれ、閉じこもっておろおろしている時間などないと言っていいくらいです。

 何より大切なことは、苦しみの中にある人たちのために祈ることです。わたしたちが誰かのために捧げる祈り、それはわたしたちがその人のために捧げる愛に他なりません。わたしたちが捧げる愛は、神さまの愛と一つに結ばれて世界を包み込み、世界を変えてゆくでしょう。わたしたちの捧げる祈り、捧げる愛には、世界を変える力があるのです。祈りによって世界を愛で満たし、その愛を目に見える形で人々に伝えてゆく。それがわたしたちの使命なのです。

 この宇部・小野田の地でも、できることはいくらでもあるはずです。コロナ禍だから宣教お休みということではなく、コロナ禍だからこそより一層熱心に宣教の使命を果たすことができるよう、心を合わせて共に祈りましょう。

 

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