バイブル・エッセイ(988)恵みの通路

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恵みの通路

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:38-43、45、47-48)

 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と、イエスは言います。イエスに触れて聖霊に満たされ、イエスの名によって悪霊を追い出している人、イエスの名によってよい業を行っている人は、誰でも自分たちの味方なのだから、止める必要はないというのです。この言葉は、わたしたちに与えられた役割が何なのかを思い出させてくれます。誰に聖霊を注ぐかは、わたしたちではなく神さまがお決めになること。わたしたちの役割は、聖霊がこの地上に注がれるための通路になることなのです。

 自分以外の人が何かよいことをし、たくさんの人から称賛されているのを見るとき、つい、「うらやましい。なんであの人だけ」という気持ちになってしまう。そんなことは、誰にでもあるのではないでしょうか。わたしも、ときどきあります。自分以外の神父や牧師さんが活躍し、信者さんたちのあいだで話題になっているときなど、「すばらしいお働きですね」などと口では称賛しながら、内心「なんであの人ばかり」とつい思ってしまうのです。

 しかし、そんなとき、活躍している人を嫉妬しても仕方がありません。なぜなら、その人を選び、活躍する力を与えておられるのは神さまだからです。その人は、別に自分が目立とうと思ってやっているわけではなく、ただ、神さまから与えられた役割を忠実に果たしているだけなのです。その人を嫉妬し、その人の活動をやめさせようとしたり、妨害したりするなら、それは神さまのしておられることを妨害しようとするのと同じでしょう。そう思うと、「嫉妬するなんて、わたしはなんと未熟なんだ」と反省せざるをえなくなります。わたしがすべきなのは、嫉妬することではなく、むしろ神さまのために働いているその人を応援すること。そして、自分自身も神さまが思わず選びたくなるような、聖霊の恵みをこの地上に注ぐのにぴったりな通路、神さまの愛に向かって大きく開かれた、まっすぐな通路になることなのです。

 聖霊がモーセ以外の人にも注がれるのを心配したヌンの子、ヨシュアに向かって、モーセは、「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言いました。このモーセの態度こそ、わたしたちが模範とすべきものでしょう。わたしたちが願うべきなのは、人々の心に聖霊が注がれ、一人でも多くの人が救われることであって、わたしたちだけがそのための通路として選ばれ、人々から尊敬されることではないのです。

 神さまは、そのときそのときに最もふさわしい通路を選び、その人を通して豊かに聖霊の恵みを注がれます。互いに競争しても仕方がありません。むしろ、互いに協力しながら、この地上を聖霊の恵みで満たすための一番よい方法を探してゆくべきでしょう。神さまの御旨のままに、神さまの恵みがこの地上に注がれるための通路としての役割をしっかり果たせるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(84)心の立ち位置

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心の立ち位置

傲慢な心で上から見下ろすか、
謙虚な心で下から見上げるか。
それによって
世界の見え方はまったく変わります。
世界を変えることができないならば、
心の立ち位置を変えてみましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(987)本当に偉い人

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本当に偉い人

 イエスと弟子たちは、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)

「自分たちの中で一番偉いのは誰か」と言い争う弟子たちに向かって、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言いました。本当に偉い人というのは、自分自身の地位や名誉、利益を求めることなく、すべての人の幸せのために自分を喜んで差し出す人のこと。自分のことは脇において、奉仕する人になりなさい、ということでしょう。

 最近わたしが会った中で本当に偉いなあと思ったのは、あるレッカー車の運転手さんでした。実は先日、山の中を走っているとき、車のエンジンがオーバーヒートして、エンストを起こしてしまったのです。困り果てて保険会社に電話すると、レッカー車を呼んでくれました。わたしもレッカー車の助手席に乗せてもらい、教会の近くの修理工場まで運んでもらったのですが、乗せてもらっているあいだの1時間くらい、運転手さんは、信号で車が止まるたびごとに携帯であちこちと連絡を取り合っていました。「あそこで事故を起こしたオートバイ、どうなりましたか」とか、修理工場や事故を起こした人、その家族などと連絡を取り合っているようでした。ときおり相手の方に、「大きな事故にならなくてよかった」とか、「このあとすぐ行きますから安心してください」などと、あたたかい言葉をかけてあげています。事故を起こして大きなショックを受けている人たちにとって、本当に慰められる声掛けでしょう。その運転手さんの姿を見てわたしは、「ああ、このような人がいるからわたしたちは安心して暮らせるんだ。この人は本当に偉い人だな」と心の底から思いました。

 偉さというのは、社会的な地位や名誉、持っている財産などによって決まるものではなく、その人の中からにじみ出てくるものだとわたしは思います。本当の偉さとは、自分のことを脇においても、困っている人たちのために奉仕する心の中にあるものなのです。子どもたちは、そのことをよく知っています。子どもたちは、相手を見るとき、その人がどんな地位にある人かとか、何を持っているかとか、そんなことで相手を判断しません。ただ、その人がどんな人か、やさしい人なのかこわい人なのか、正直な人なのかずるい人なのか、そのようなことだけを見ています。目の前にいる相手が、どんな人かだけを見ているのです。子どもたちは「偉い」という考え方さえ持ちませんが、説明すれば、「偉い」のはやさしい人、正直な人だと言うでしょう。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というイエスの言葉には、そんな子どもたちを受け入れられる人、そんな子どもたちと同じ心で生きる人こそ、神を受け入れる人、天国にふさわしい人だという意味が、含まれているような気がします。本当に偉いのは、目の前にいる相手をしっかり見て、謙虚な心で愛を生きる人なのです。わたしたちも、レッカー車の運転手さんのように、「この人がいてくれるから安心して生活できる」と思ってもらえるような、本当の意味で偉い人になれるよう心をあわせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(83)永遠の愛

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永遠の愛

条件付きの愛は、
相手が条件を満たさなくなれば
消えてしまいます。
無条件の愛は、
相手に何が起ころうと
決して消えることがありません。
「永遠の愛」とよく言いますが、
真実の愛は、初めから
その中に永遠を含んでいるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(986)神と共に立つ

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神と共に立つ

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:27-35)

 イエスの言葉を聞いて驚き、いさめようとするペトロに向かって、イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言いました。「人から悪く思われたら困る」というペトロの人間的な思いにつけ込んで、サタンがペトロに入りこんだ。そんなことを言わせているのは、サタンに違いないということでしょう。人間からどう思われようと、神の御旨を行うことが何より大切だ。イエスは、そう確信していたのです。

 神の御旨よりも先に、人間の思いを考えてしまうということは、わたしたちにもよくあるのではないでしょうか。こんなことをして、人から悪口を言われたらどうしようか。悪口を言われないまでも、冷たく無視されてしまったらどうしよう。こんなことをしても、意味がないのではないだろうか。そんな風に、人間からの反応を基準にして考え、何かを始めるのをあきらめてしまう。わたし自身、そんなことがよく起こりがちです。

 たとえば、コロナ禍でみんなが教会に来られない。そんなとき、どうしたらみんなに神さまの愛を届けられるだろうかと考えて、「そうだ、手紙を書こう」と思ったとしましょう。最初はとてもよい考えだと思うのですが、しだいに、「でも、そんなことをしても何人にも書けない。無駄じゃないだろうか」とか、「急に手紙が来て、相手がどう思うだろうか」とか、そんな気持ちが出てきて、やる気がなくなってしまうのです。これがまさに、「人間のことを思っている」状態でしょう。

 そんなときわたしは、神の御旨がなんだろうかと考え直すようにしています。「いまコロナ禍の中にあって、一人で家に閉じこもっている人。何もすることがなく、生きる気力を失いかけている人、そんな人たちのために、神さまは今、わたしを使って何をしたいのだろうか」と考え直し、自分に問いかけてみるのです。すると、「どんな小さなことでも、苦しんでいる人たちのために、苦しんでいる人たちを何とか助けたいと願う神さまのために、自分にできることから始めよう」という気持ちが湧き上がって来るのです。

 イザヤは、「誰がわたしと共に争ってくれるのか。われわれは共に立とう」と語っていますが、神さまの御旨のままに生きようと思うとき、わたしたちの心に聖霊が宿り、わたしたちと共に戦ってくれる。そんな気がします。実際に始めてみると、「そうだ、手紙だけじゃなく、きれいな写真も一緒に送ってあげよう」とか、「あの人にも声をかけて手伝ってもらおう」とか、色々な思いが生まれ、どんどん活動は広がり始めます。これはまさに、神さまが共にいて、一緒に戦ってくれるしるしでしょう。

 長引くコロナ禍の中にあっても、神さまのために、困っている人たちのために、わたしたちにできることはいろいろあるはずです。人間の思いにとらわれることなく、神さまの御旨を行うことができるように。いつも、神さまと共に立ち、共に進んでゆくことができるように祈りましょう。

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こころの道しるべ(82)誰かを助けるための力

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誰かを助けるための力

自分のためにやろうとすると
うまく行かないことでも、
誰かのためにやろうとすると
うまく行くことがあります。
人間には、自分のためではなく、
誰かを助けるためだけに
与えられた力があるのです。

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バイブル・エッセイ(985)ぬくもりの力

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ぬくもりの力

 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(マルコ7:31-37)

 耳が聞こえず、話すこともできない人をイエスが癒す場面が読まれました。他の癒しの奇跡の場面では、イエスが声をかけるか手を置くかすると癒やされることが多いのですが、この場面では、イエスは相手の耳に指を入れ、舌に触り、さらに「エッファタ」(開け)と言ったと記されています。なぜ、イエスはここまでしたのでしょう。

 HIVの治療に当たっているお医者さんから、こんな話を聴いたことがあります。まだ治療のための薬も開発されておらず、患者さんにしてあげられることがあまりない時代のことです。そのお医者さんは、穏やかな笑みを浮かべながら、「診察してもあまり助けにはならないと思うこともあるが、脈をとって上げるだけでも患者さんはにっこりうれしそうな顔をしてくれる。それだけでも、クリニックにいる意味があると思っています」と言っておられました。患者さんたちにとっては、誰かに触ってもらえる、人のぬくもりを感じられるということだけでも癒しになるということでしょう。人間のぬくもりには、さびしさや心の傷を癒す力があるのです。

 イエスが、耳が聞こえず、話すこともできないこの人の癒しのためにこれほどのことをしたのは、この人が、耳が聞こえないこと、話せないことによってこれまで辛い思いをし、心にも傷を負っていることに気づいたから、この人がぬくもりによる癒しを必要としていると感じたからだろうとわたしは思います。人々の中から連れ出し、耳に指を入れ、舌につばを塗り、さらに声をかける。この人はきっと、イエスのこの一連の行動に驚き、「わたしのためにここまでしてくれるなんて」と感じたことでしょう。これらの行動にこめられたイエスの愛、触れ合うことで伝えられた愛のぬくもりが、この人の心の傷を癒し、体の障害を癒す奇跡を生み出した。わたしはそんな風に思っています。

 昨年の「世界病者の日」のメッセージの中でフランシスコ教皇は、「イエスは、魔法によって癒すのではなく、出会いによって、人と人との関わりによって癒すのです」とおっしゃいました。イエスの起こす癒しの奇跡は、呪文を唱えれば自動的に治る魔法のようなものではなく、人と人との間に生まれる愛が引き起こす奇跡だということでしょう。声のぬくもり、まなざしのぬくもり、手のぬくもり、出会いの中で生まれるそのような人間のぬくもりを通して、神さまは奇跡を行われるということです。

 ふれあいを伴わない祈りによっても、癒しは起こるでしょう。しかし、その場合でも、奇跡を引き起こすのは、祈りに込められた愛であるに違いありません。人と人との間に通い合う、ささやかな愛のぬくもりの中で奇跡が生まれる。そう信じて、苦しんでいる人たち、助けを求めている人たちのために祈り、その人たちのもとに出かけてゆくことができるよう心をあわせて願いましょう。

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