こころの道しるべ(86)バランスの悪い想像

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バランスの悪い想像

人間は、先に起こる不幸を想像するとき
天才的な力を発揮しますが、
先に起こる幸せを想像するのは苦手です。
だから、先のことについては、
バランスの悪い想像しかできないのです。
先のことは神さまに委ね、
わたしたちは「いま」に集中しましょう。

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バイブル・エッセイ(989)神さまが結んだ絆

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神さまが結んだ絆

 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」(マルコ10:2-12)

 「夫が妻を離縁することは律法に適っているか」と問うファリサイ派の人々に、イエスは「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と答えました。もし二人の絆が神によって結ばれたものなら、その絆を断つことは神のみ旨に反するというのです。離婚についての律法の解釈を問うファリサイ派の人々に対して、イエスはそもそも、なぜ人は結婚するのかという観点から答えたと言ってよいでしょう。

 人間は、なぜ結婚するのでしょうか。旧約聖書では、神は「人(アダム)から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」。だから、もともと一体だった男女は、結婚してまた一体に戻るのだと説明されました。この説明は、現代では受け入れにくい部分もあるかと思いますが、人間はすべて神という一つの源から生まれ、そのうちに同じ神の愛を宿している。だから、互いに引かれ合うのだと考えれば、現代でも十分に受け入れられるでしょう。もともと一つだったものは、互いに引かれ合うということです。物質と物質とは、万有引力の法則によって引かれ合うとされていますが、人間同士の場合は、万有引力だけでなく、それぞれの内に宿った愛の力によっても互いに引かれ合っているのです。

 人間が結婚するもう一つの理由は、もともと一つだったものを「神が結び合わせる」からです。わたしたちは、結婚相手を自分で選んだと思っているかもしれませんが、実は、結婚する二人は、神さまによって導かれて出会った。神さまが、自分にちょうどよい相手を選んで与えてくださったということなのです。この二人が結ばれることは、神の計画を実現するために不可欠なことだ。この二人が結ばれることによって、確かに「神の国」がこの地上に始まる。そう思われたときに、神さまは二人を結婚の絆で結ばれます。ですから、もしその絆が神によって結ばれたものであるなら、離婚することは神のみ旨、神の計画に反することになってしまうのです。

 このように考えてゆくと、「夫が勝手に妻を離縁してはいけない」というイエスの立場は、結婚だけでなく、すべての人間関係に当てはまるように思います。結婚する相手だけでなく、この地上に生きるすべての人は、唯一の神のもとから生まれてきました。だから、わたしたちは互いに引かれ合うのです。互いに愛し合い、一つに結ばれることによって本来の姿に戻ることができると言ってもよいでしょう。また、わたしたちが出会うすべての人は、自分で勝手に出会ったわけではなく、神さまが出合わせてくださった人たちです。神さまがわたしたちと相手との間に愛情や友情の絆を結んでくださったのなら、その絆を勝手に断つことは、神さまのみ旨に反することなのです。

 もしわたしたちの間に愛があり、互いが愛によって結ばれているなら、その絆は間違いなく神さまによって結ばれたものです。神さまが結んでくださった絆を大切に守っていくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(85)愛し合い、助け合う

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愛し合い、助け合う

孤独の痛みは、わたしたちが
愛し合うために生まれてきたことを
思い出させるために、
無力さの痛みは、わたしたちが
助け合わずに生きられないことを
思い出させるためにあります。
愛し合い、助け合って生きるなら、
その痛みは消え去るでしょう。

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バイブル・エッセイ(988)恵みの通路

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恵みの通路

 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:38-43、45、47-48)

 「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と、イエスは言います。イエスに触れて聖霊に満たされ、イエスの名によって悪霊を追い出している人、イエスの名によってよい業を行っている人は、誰でも自分たちの味方なのだから、止める必要はないというのです。この言葉は、わたしたちに与えられた役割が何なのかを思い出させてくれます。誰に聖霊を注ぐかは、わたしたちではなく神さまがお決めになること。わたしたちの役割は、聖霊がこの地上に注がれるための通路になることなのです。

 自分以外の人が何かよいことをし、たくさんの人から称賛されているのを見るとき、つい、「うらやましい。なんであの人だけ」という気持ちになってしまう。そんなことは、誰にでもあるのではないでしょうか。わたしも、ときどきあります。自分以外の神父や牧師さんが活躍し、信者さんたちのあいだで話題になっているときなど、「すばらしいお働きですね」などと口では称賛しながら、内心「なんであの人ばかり」とつい思ってしまうのです。

 しかし、そんなとき、活躍している人を嫉妬しても仕方がありません。なぜなら、その人を選び、活躍する力を与えておられるのは神さまだからです。その人は、別に自分が目立とうと思ってやっているわけではなく、ただ、神さまから与えられた役割を忠実に果たしているだけなのです。その人を嫉妬し、その人の活動をやめさせようとしたり、妨害したりするなら、それは神さまのしておられることを妨害しようとするのと同じでしょう。そう思うと、「嫉妬するなんて、わたしはなんと未熟なんだ」と反省せざるをえなくなります。わたしがすべきなのは、嫉妬することではなく、むしろ神さまのために働いているその人を応援すること。そして、自分自身も神さまが思わず選びたくなるような、聖霊の恵みをこの地上に注ぐのにぴったりな通路、神さまの愛に向かって大きく開かれた、まっすぐな通路になることなのです。

 聖霊がモーセ以外の人にも注がれるのを心配したヌンの子、ヨシュアに向かって、モーセは、「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」と言いました。このモーセの態度こそ、わたしたちが模範とすべきものでしょう。わたしたちが願うべきなのは、人々の心に聖霊が注がれ、一人でも多くの人が救われることであって、わたしたちだけがそのための通路として選ばれ、人々から尊敬されることではないのです。

 神さまは、そのときそのときに最もふさわしい通路を選び、その人を通して豊かに聖霊の恵みを注がれます。互いに競争しても仕方がありません。むしろ、互いに協力しながら、この地上を聖霊の恵みで満たすための一番よい方法を探してゆくべきでしょう。神さまの御旨のままに、神さまの恵みがこの地上に注がれるための通路としての役割をしっかり果たせるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(84)心の立ち位置

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心の立ち位置

傲慢な心で上から見下ろすか、
謙虚な心で下から見上げるか。
それによって
世界の見え方はまったく変わります。
世界を変えることができないならば、
心の立ち位置を変えてみましょう。

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バイブル・エッセイ(987)本当に偉い人

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本当に偉い人

 イエスと弟子たちは、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マルコ9:30-37)

「自分たちの中で一番偉いのは誰か」と言い争う弟子たちに向かって、イエスは、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言いました。本当に偉い人というのは、自分自身の地位や名誉、利益を求めることなく、すべての人の幸せのために自分を喜んで差し出す人のこと。自分のことは脇において、奉仕する人になりなさい、ということでしょう。

 最近わたしが会った中で本当に偉いなあと思ったのは、あるレッカー車の運転手さんでした。実は先日、山の中を走っているとき、車のエンジンがオーバーヒートして、エンストを起こしてしまったのです。困り果てて保険会社に電話すると、レッカー車を呼んでくれました。わたしもレッカー車の助手席に乗せてもらい、教会の近くの修理工場まで運んでもらったのですが、乗せてもらっているあいだの1時間くらい、運転手さんは、信号で車が止まるたびごとに携帯であちこちと連絡を取り合っていました。「あそこで事故を起こしたオートバイ、どうなりましたか」とか、修理工場や事故を起こした人、その家族などと連絡を取り合っているようでした。ときおり相手の方に、「大きな事故にならなくてよかった」とか、「このあとすぐ行きますから安心してください」などと、あたたかい言葉をかけてあげています。事故を起こして大きなショックを受けている人たちにとって、本当に慰められる声掛けでしょう。その運転手さんの姿を見てわたしは、「ああ、このような人がいるからわたしたちは安心して暮らせるんだ。この人は本当に偉い人だな」と心の底から思いました。

 偉さというのは、社会的な地位や名誉、持っている財産などによって決まるものではなく、その人の中からにじみ出てくるものだとわたしは思います。本当の偉さとは、自分のことを脇においても、困っている人たちのために奉仕する心の中にあるものなのです。子どもたちは、そのことをよく知っています。子どもたちは、相手を見るとき、その人がどんな地位にある人かとか、何を持っているかとか、そんなことで相手を判断しません。ただ、その人がどんな人か、やさしい人なのかこわい人なのか、正直な人なのかずるい人なのか、そのようなことだけを見ています。目の前にいる相手が、どんな人かだけを見ているのです。子どもたちは「偉い」という考え方さえ持ちませんが、説明すれば、「偉い」のはやさしい人、正直な人だと言うでしょう。

「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」というイエスの言葉には、そんな子どもたちを受け入れられる人、そんな子どもたちと同じ心で生きる人こそ、神を受け入れる人、天国にふさわしい人だという意味が、含まれているような気がします。本当に偉いのは、目の前にいる相手をしっかり見て、謙虚な心で愛を生きる人なのです。わたしたちも、レッカー車の運転手さんのように、「この人がいてくれるから安心して生活できる」と思ってもらえるような、本当の意味で偉い人になれるよう心をあわせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(83)永遠の愛

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永遠の愛

条件付きの愛は、
相手が条件を満たさなくなれば
消えてしまいます。
無条件の愛は、
相手に何が起ころうと
決して消えることがありません。
「永遠の愛」とよく言いますが、
真実の愛は、初めから
その中に永遠を含んでいるのです。

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