バイブル・エッセイ(1004)愛を届ける使命

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愛を届ける使命

 そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 羊飼いたちの話を聞いたとき、集まっていた他の人たちは不思議に思ったが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と記されています。起こった出来事の意味について、マリアは軽率に判断をくだすことなく、その意味を心の中で思い巡らし続けたのです。人間の目には不可解なことであっても、神さまには人間の理解をはるかに越えた計画があると信じ、「心に納めて思い巡らす」。神の母、聖マリアはそのような方だったのです。

 人間の目には不可解に見えることの一つに、日本でのキリスト教徒の数の減少があります。明治時代からこれまで100年以上ものあいだ、わたしたちの先輩やわたしたちが懸命に努力し、福音宣教に励んでいるにも関わらず、日本のカトリック人口は2005年あたりをピークに減少し始めました。信徒の高齢化、若者の教会離れも進んでおり、この先、しばらくは減少期が続くようにも思えます。これは、人間の目にはまったく不思議なことで、「なぜこんなことになるのだ」とつい言いたくなりますが、これをもって「日本での福音宣教は失敗した。日本にキリスト教は根付かない」と決めつけることはできないでしょう。神さまには、わたしたち人間の理解をはるかに超えたご計画があり、この出来事も、将来には必ずその意味が明らかになるはずなのです。目先のことだけを見てあきらめず、すべての出来事を「心に納めて思い巡らす」ことが大切だと思います。

 神のご計画を信じる一方で、わたしたちは、その計画の中で神から与えられた自分たちの役割を、絶えず確認する必要があるでしょう。どんなに福音宣教をしても効果が出ないとすれば、もしかするとそれは、わたしたちのやり方がよくないから、神の御旨から外れた独りよがりなやり方をしているからかもしれません。イエスやその弟子たちがしたように、社会の片隅に追いやられ、絶望の闇の中で苦しんでいる人たちのもとに神さまの愛を届けるために、自分がいまできることをすべてしているだろうか。自分たちの魂の平安ばかりを追い求め、貧しい人たち、苦しんでいる人たちのことを忘れていないだろうか。苦しんでいる人たちと同じ目線に立たない宣教、押し付けがましい上から目線の宣教になっていないだろうか。神の計画を地上に実現してゆくために、わたしたちは絶えずそう自分に問いかける必要があるでしょう。

 日本での福音宣教を続けていくために何より大切なのは、すぐに成果がでなくてもあきらめず、自分の使命を根気よく果たし続けること。人間としてできる限りのことをし、結果は神の手に委ねることだと思います。キリストの教え、福音の価値観が日本社会に受け入れられ、定着してゆくには、おそらく何百年もの時間がかかるのです。わたしたちが生きている間に、宣教の成果が見えることはきっとないでしょう。しかし、わたしたちが自分に与えられた使命を忠実に果たし続ける限り、神さまのご計画は確実に前に進んでいます。いま起こっているすべての出来事を「心に納めて思い巡らし」ながら、神の母聖マリアと共に、日本の隅々にまで神さまの愛を届けられるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(98)神さまからのプレゼント

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神さまからのプレゼント

わたしたちの命は、
神さまからのプレゼント。
いやな顔をしたり、
途中で放り出したりすれば、
神さまはどんなに悲しむでしょう。
笑顔で受け取り、
最後の日まで大切に生きましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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フォト・ライブラリー(602)カトリック宇部教会「クリスマス・ファンタジー」

カトリック宇部教会「クリスマス・ファンタジー」

今年も、カトリック宇部教会の聖堂エントランスに、御降誕の夜をリアルに再現したジオラマが作られました。庭には、子どもたちが喜ぶイルミネーションも。ご近所のみなさんにもなかなか好評のようで、たくさんの方々が親子連れで見に来てくださいました。神に感謝。

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バイブル・エッセイ(1003)共に探し求める~共同識別の神秘

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共に探し求める~共同識別の神秘

 イエスの両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いてい0る人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:41-52)

 イエスをようやく探し当てた両親に向かって、イエスは「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言いました。まるで親に反抗しているようにも思えますが、そうではないでしょう。ここでイエスは、わたしたちは誰もが父なる神の子どもであり、父なる神の御旨のままに生きるのがわたしたちの使命であること。たとえ両親でも、子どもが父なる神の御旨のままに生きるのを妨げてはならないことを、マリアとヨセフに教えたのだと思います。父なる神のもとにある家族とは、それぞれが神の御旨のままに生きるのを支え合い、励ましあうための共同体なのです。

 では、どうしたら神の御旨が分かるのでしょうか。イエスは別として、子どもがいつも自分のすべきこと、父なる神から自分に与えられた使命を分かっているとは限らないし、親も、自分の子どもに与えられた使命が何か分かっているとは限りません。神の御旨は、共に祈りながら探し求める以外にないのです。家族とは、父なる神の前にひざまずき、それぞれにとって一番よい道を、共に祈りながら探してゆく共同体だとも言えるでしょう。

 このように、神の前で共に神の御旨を探して祈ることを、難しい言葉で「共同識別」と言います。識別というのは、この場合、単に頭で考えるのではなく、祈りの中で神の御旨を見極めるというような意味合いです。そのための前提になるのは、神以外には、正しい答えを誰も知らないということです。「あなたの意見は間違っている」と、初めから決めつけられる人は誰もいません。自分の意見も間違っているかもしれないということを前提に、相手の意見に謙虚に耳を傾ける必要があります。もし互いが自分の心を空にして相手の意見にしっかり耳を傾け、とことん話し合うなら、そのとき必ずわたしたちのあいだに聖霊が来てくださいます。なぜなら、そのときわたしたちの間には愛があるからです。愛は聖霊を招き、聖霊はわたしたちに神の御旨を示してくださるでしょう。それが、共同識別の神秘なのです。逆に、初めから相手の意見を否定して聞く耳を持たないなら、聖霊が働くことはありません。なぜなら、そこには愛がないからです。

 共同識別が必要なのは、親子だけではありません。わたしたち教会の共同体も、父なる神のもとにあって家族であり、共同識別が必要です。正しい答えを初めから知っている人は誰もいません。司祭であっても、修道者であっても、神の御旨を初めから知っているとは限らないのです。いま、教皇様のシノドスの呼びかけを初めとして、教区でも、小教区でも共同識別が求められています。一つの家族として神の前に共にひざまずき、神の御旨を共に見極めることができるよう祈りましょう。

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バイブル・エッセイ(1002)神の子の栄光

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神の子の栄光

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5、9-14)

 わたしたちの間に宿られたことば、イエス・キリストの栄光を「わたしたちは見た」とヨハネは言います。しかし、その栄光は、きらびやかな地上の栄光ではありませんでした。イエス・キリストの栄光は、「父の独り子としての栄光」であり、「恵みと真理に満ちた」ものだったのです。

 イエスの生涯を振り返るとき、そこにきらびやかな地上の栄光を見つけ出すことはできません。貧しい家畜小屋で生まれ、大工として地道に働き、時が来てからは野宿をしながら各地を周って福音を伝えたその生涯は、地上の名誉や権威とはまったく無縁のものだったのです。エルサレム入城のときだけ、ほんの束の間、人々の歓声を浴びますが、しかしその歓声は、まもなくイエスの処刑を求める人々の声にとって代わられたのです。イエスは常に貧しい服を着、質素な食事をしながら、人々の救いのためにひたすら働き続けたのです。

 その生涯の中に、きらびやかな地上の栄光はありませんでした。しかし、イエスの生涯には、たしかに神の子としての栄光がありました。自らも貧しい生活をしながら、社会の片隅に追いやられた人々のもとを訪ね、彼らの苦しみに寄り添うその姿には、確かに神の栄光が輝いていたのです。イエスと出会った人々はみな、イエスの中に輝く神の愛に出会い、そこに希望の光を見つけ出しました。イエスの中に神の愛を見た人は、イエスとの出会いを生涯忘れることがなかったでしょう。地上の栄光は人から与えられるものですが、天からの栄光はその人の内側から輝き出すものだと言ってもいいかもしれません。イエスのうちに燦然と輝く神の愛、それこそがイエスの栄光だったのです。

 神の子の栄光を輝かせて生きる人は、わたしたちの身の回りにもたくさんいます。たとえば、深刻な病名を告げられた夫に寄り添いながら、最後の瞬間まで夫に愛を注ぎ続けることを決意してこのクリスマスを迎えたご婦人。奥さんを亡くした深い悲しみの中にありながら、天国の奥さんと心を通わせ、周りの人々にやさしい笑顔を浮かべるご主人。最後まで、みんなの幸せのために何か自分にできることをしたいと願い、ご近所や教会の掃除を続ける高齢者。そのような人たち一人ひとりの中に、神の子の栄光が燦然と輝いています。人から称賛されることはないかもしれませんが、その輝きは天にまで届き、イエスやマリア、諸聖人、天使たちの歓声が天国に鳴り響くのです。地上の栄光は束の間に消えてしまいますが、天の栄光は永遠に消えることがありません。神の愛の中に、そして共に生きた人々の記憶の中に深く刻まれ、いつまでも残り続けるのです。

 わたしたちはつい、地上の栄光にばかり目を奪われ、地上の栄光を手に入れた人をねたんだり、互いに競争したりしてしまいがちです。しかし、本当の栄光は、そのようなところにはないのです。人から与えられる栄光ではなく、自らのうちから輝き出す栄光、神の子としての栄光をこの地上に輝かせることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1001)魂の安らぎ

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魂の安らぎ

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-14)

「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と聞いて驚く羊飼いたちに、天使は「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」と言いました。貧しい飼い葉桶に寝かされた、まったく無力な乳飲み子こそが、あなたたちの救い主。その貧しさと無力さの中にこそ、あなたたちの、そして全人類の救いがあるというのです。

 飼い葉桶に寝かされたイエスの姿を見るとき、わたしは詩篇の中の「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」(詩131)という言葉を思い出します。大きなもの、自分の力の及ばないものを求めて心を騒がせることなく、あるがままの無力な自分を神の手に委ねてすやすや眠る幼子。この詩篇の作者は、その魂の安らぎの中に人間の救いを見たのでしょう。

 わたしたち人間は、たくさんのものを欲しがり、自分の力の及ばないものさえ手に入れようとして苦しみに陥っていきます。わたしたちの苦しみのほとんどは、「あれが欲しかったのに手に入らなかった」ということから生まれてくるのです。豊かさや富を追いかけている限り、わたしたちの魂が安らぐことはありません。もし魂の安らぎ、魂の救いに到達したいなら、幼子のようになることです。何も持たない自分、何もできない自分をしっかり受け止めてくれる母の愛、神の愛を信じ、愛に包まれて安らかに憩う幼子の姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。

 飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスの安らかな寝顔は、わたしたちにそのことを思い出させてくれます。イエスの寝顔を見ながら、「わたしはいったい何を求め、何にしがみついているのだろう」と自分に問いかけるとき、救いへの道がわたしたちの前に開きます。欲しがっても仕方がないものを手放し、幼子のような心であるがままの無力な自分を神の前に差し出すとき、わたしたちの魂は救われるのです。

 救いに到達するために、きらびやかな服装やぜいたくなもの、地上での名誉や地位、権力などはまったく必要ありません。ただ、羊飼いたちのように、着の身着のまま、自分のあるがままの姿で集まればよいのです。誰もがあるがままの姿で魂の永遠の安らぎに到達できるからこそ、人類の救いなのです。余計なものは何一つ必要ありません。ただ、神の愛を信じる心さえあればよいのです。

 わたしたちが年に一度、こうして貧しい飼葉桶を囲み、すやすやと眠る幼子イエスを見て共に祈るのは、本当に素晴らしいことだと思います。この幼子の姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。自分の力の及ばない大きなものを求めず、ただ神の愛を信じ、神の愛に身を委ねて眠る無力なイエスの姿の中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。忙しい毎日の中で救いを見失ってしまうことがないように、幼子イエスの姿をしっかりと心に刻みつけましょう。救いを見失いそうなときは、いつでも、幼子イエスの姿を思い出しましょう。この幼子イエスこそ、まさにわたしたちの救い主なのです。

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こころの道しるべ(97)耐えられる苦しみ

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耐えられる苦しみ

耐えられないほどひどい苦しみも、
誰かがそばにいて手を握ってくれるなら
耐えられる苦しみに変わります。
愛する人の苦しみを
なくすことはできなくても、
耐えられる苦しみに
変えることならできるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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