バイブル・エッセイ(1042)天国の戸口

天国の戸口

 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(ルカ13:22-30)

 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問に、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と答えました。神さまはすべての人を救いたい。だが、救いへの戸口は狭いので、入ろうとしても入れない人が多いということです。どういうことでしょう。すべての人を救うために、神さまはもっと広い戸口を作れなかったのでしょうか。

 救いへの戸口、天国への戸口が狭いというのは、天国が愛の世界だということと関係していると思います。天国の戸口は愛の戸口であり、愛の戸口は、自分を小さくしなければ通ることができないのです。大きなままでは通れない、小さくならなければ入れないという意味で、天国の戸口はとても狭いのです。

 たとえば、天国の戸口をくぐるためには、嫌いな人とも和解しなければなりません。「あいつが悪いのに、なぜこのわたしがゆるさなければならないんだ。あいつが頭を下げてくるべきだ」などと考えていると、天国に入ることができないのです。天国に入りたいなら、「自分は絶対に正しい」という思いを捨て、小さくなる必要があります。「あの人にもいろいろ事情があったんだろうし、わたしにだって落ち度がないわけではない」と考えられる謙虚な心、小さな心になったときにだけ、わたしたちは戸口を通ることができるのです。

 天国の戸口をくぐるためには、さまざまなものにしがみつく心も捨てなければなりません。「あれも欲しいし、これも欲しいのに、なかなか手に入らない。なぜ、この世界はわたしが思った通りにならないんだ」などと考えていると、天国に入ることができないのです。天国に入りたいなら、「あれも欲しい、これも欲しい」という欲望を捨て、小さくなる必要があります。「思った通りにはならなかったが、わたしの人生はこれで十分だ。神さまありがとうございます」と思える謙虚な心、小さな心になったときにだけ、わたしたちは戸口を通ることができるのです。

 「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」とイエスが言っていますが、これは、「わたしは昔から教会に来ているから、教会のことをよく知っている。新入りの連中より偉いんだ」などと考えていると、天国の戸口をくぐれないということだと思います。天国に入りたいなら、思い上がった心を捨て、「長くいるからといって、よくなっているとは限らない」と思える謙虚な心、小さな心になる必要があるのです。

「神さま、この戸口は狭すぎます」と苦情を言っても、神さまにはどうすることもできません。なぜなら、天国の戸口は愛であり、愛するためには謙虚な心が必要だからです。天国が愛の世界である限り、その戸口はいつも狭いのです。

 死んで天国に入るときだけの話ではありません。日々の暮らしの中で天国を生きるためにも、謙虚な心が必要です。不安や恐れにつきまとわれ、毎日の生活が苦しい。ぬくもりとやさしさに満ちた穏やかな世界に、入りたいのに入れない。そんなときには、「自分は大きすぎるのではないだろうか」と考えたらよいでしょう。謙虚な心で狭い戸口から入り、いつも天国の喜びと安らぎの中で生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(129)心を亡くす

心を亡くす

「忙しい」は、「心を亡くす」と書きます。
たくさんの仕事に追われているとき、
わたしたちは自分を守るのに必死で、
人を思いやることが
できなくなってしまうのです。
人を思いやる心を失うほど、
自分を追い詰めないようにしましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1041)委ねる者の幸い

委ねる者の幸い

 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。(ルカ1:39-56)

 マリアの姿を見たエリサベトは、聖霊に満たされて、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と声高らかに言いました。主である神を信頼し、神にすべてを差し出した人はなんと幸せなのか。エリサベトは、マリアと出会ってそのことをはっきり感じたのだと思います。

 神を信じ、神にすべてを委ねた人の幸い。それを、マリア自身は「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と表現しています。こんなに弱く、小さなわたしを通して、神の偉大な業が行われた。それこそが自分の幸せだというのです。マリアが言っているのは、神が、自分のような者をキリストの母として選んでくださったということでしょう。自分が生んだ子どもによって、この世界に救いがもたらされるとするなら、それ以上の幸せはありません。それこそが、神を信じ、神にすべてを委ねた聖母マリアの幸せだったのです。

 この幸せは、マリアだけでなく、同じように神を信じ、神に自分を委ねて生きるすべての人に与えられる幸せです。たとえば、コロナ禍や戦争の脅威、気候変動などによって翻弄される現代社会にあっても、神にすべてを委ねて生きる人はまったく動揺することがありません。「何が起こっても、神さまが一番よいようにしてくださる。自分は毎日、神から与えられた使命、互いに愛し合うという使命を果たして生きるだけだ」と確信し、いつも笑顔で、周りの人たちにやさしい言葉をかけながら幸せに生きられるのです。

 時代の波に翻弄される、弱くて小さな人間が、どんなときでも喜びと希望に満ちた笑顔を浮かべ、周りの人をいたわりながら生きられる。これはまさに、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさった」からだと言ってよいでしょう。神を信頼し、神にすべてを委ねて生きるなら、何があっても、神さまがすべてをよくしてくださるから大丈夫と信じて、一日一日を前向きに生きるなら、わたしたちもマリアと同じ幸せ、エリサベトが讃えた「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人」の幸せを味わうことができるのです。

 何か大きなことをする必要はありません。どんなに厳しい困難に直面しても、恐れや不安に呑み込まれず、心に希望を持ち続けられるなら、それは本当に偉大なことです。自分自身が困難に直面しているにもかかわらず、隣人をいたわる心を持ち続けられるなら、それは本当に偉大なことです。そのような一つひとつの小さなことこそ、神がなさる「偉大なこと」であり、そのようなことを通してこの世界に救いが実現してゆくのです。

 聖母マリアは、幼子イエスを生むことによって幸いな者となりました。わたしたちは、日々の生活の中で、小さなやさしさやいたわり、おもいやりを生むことによって幸いな者になることができます。神を信じ、神にすべてをゆだねて日々を生きられるよう、そうすることで「神の国」の幸いを生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1040)分裂を越えて

分裂を越えて

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)

 キリスト教は平和を願う宗教のはずですが、今日の福音の中でイエスは「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言っています。「互いに愛し合いなさい」といういつもの教えと、まったく逆のような話です。いったい、イエスは何を言い出したのでしょう。

 イエスはきっと、この言葉によって、平和を実現するのはそんなに簡単ではない。きれい事だけでは済まないということを伝えたかったのだろうと思います。現に、イエスの教えが伝えられたとき、家族のあいだには分裂が起こりました。妻がイエスの教えを信じたが、夫はそれを受け入れない。親が信じたが、子どもは信仰になど関心がない。ときには、「何でそんなもの信じるんだ」とか、「なぜあなたはわかってくれないの」などと喧嘩にさえなる。現代でもよくあるそのような分裂が、イエスが生きていた頃からもうあったはずなのです。

 しかし、それはイエスが平和を破壊するためにやって来たというわけではありません。分裂が生じ、家族のあいだに対立が生まれるということは、平和に向かう健全なプロセスの一部だと考えられるからです。新しい考え方、世間の一般的なものとは違う考え方が入って来たとき、まずは分裂が生まれます。新しい考え方を受け入れられる人と、受け入れられない人が現れ、その人たちの間に分裂が起こるのです。ある考え方を誰かに強制することができない以上、それはある意味で当然のことです。

 次に、両者のあいだでの話し合いが始まります。お互いに、なぜその新しい考え方を受け入れるのか、受け入れないのか、忌憚のない話し合いを行う中で、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることがはっきりすれば、それで分裂は解消するでしょう。話し合いを通して互いの絆はより強められ、家族の平和はさらに安定したものになるに違いありません。

 どんなに話し合っても、話がかみ合わない場合もあるでしょう。しかし、あきらめる必要はありません。どんなに意見が合わなかったとしても、「愛する家族が、この信仰をこんなにも大切にしている」ということが相手に伝われば、「この信仰は気に入らないが、家族がそれを大切にしているということだけは尊重しよう」という態度が生まれてくる可能性があるからです。互いへの愛のために、あらゆる違いを越えて互いの思いを尊重するという態度が家族の中に生まれれば、その家族の平和は盤石といってもよいでしょう。

 イエスがやって来て愛の教えを説いたから、すぐに世界が平和になったというほど、世の中は単純ではありません。「分裂をもたらすために来た」という言葉で、イエスはその現実を語っておられたのです。ですから、分裂が起こっても恐れる必要はありません。むしろ、それはイエスのもたらす平和の第一歩なのです。忍耐強い話し合いと愛によって分裂を乗り越え、真の平和を実現していくことができるよう祈りましょう。

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こころの道しるべ(128)神さまの勝ち

神さまの勝ち

誰かとけんかをしたときは、
「自分が勝つか、相手が勝つか」
と考えず、
「悪魔が勝つか、神さまが勝つか」
と考えましょう。
憎しみに負ければ悪魔の勝ち、
愛が憎しみを打ち破れば
神さまの勝ちです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1039)愛に目を覚ます

愛に目を覚ます

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と、イエスは弟子たちに言いました。「目を覚ましている」というのは、単に起きているということではなく、いつ主人が帰ってきてもいいように、自分の生活をきちんと整えなさい。主人に命じられたことを、忠実に果たしなさいということでしょう。主人である神さまの信頼に応え、いつも神のみ旨のままに生きること。それが、僕であるわたしたちの使命なのです。

 しかし、ときどきわたしたちの生活は乱れてしまうことがあります。それは、たとえば、何か大きな試練がやってきたときです。自分はこんなに頑張っているのに、誰も認めてくれない。願ったような結果が出ない。そんなときわたしたちはつい、人間も神も信頼できなくなり、「もうやっていられない。どうせわたしなんか」と思って自暴自棄になってしまうのです。自分が神の子であり、神から大切な使命を与えられていることを忘れるといってもよいでしょう。暴飲暴食をしたり、無駄な買い物をしたり、生活のリズムが不規則になったりするのは、そのようなときです。

 「どうせわたしなんか」ということは、つまり、「わたしは人間からも、神さまからも見捨てられた。誰からも愛されていないので、どうなっても構わない」ということだといってよいでしょう。生活が乱れるとき、わたしたちは、人間への信頼、神への信頼を失っているのです。そうだとすれば、神のみ旨のままに生活を整えるために何より必要なのは、どんなときでも神への信頼を失わないことだといってよいでしょう。神を信頼し、神の被造物である人間を信頼するとき、わたしたちは「こんなことでは、神さまの信頼を裏切ることになる。自分を信頼してくれているみんなの信頼を裏切ることになる。生活を改めよう」と思って、自分の生活を整えられるようになるのです。

 何がよいことで、何が悪いことなのかを幼稚園の子どもたちに教えるとき、わたしは、「こんなことをしたら、神さまは喜ぶかな、それとも悲しむかな」と子どもたちに尋ねます。すると、悪いことをしている場合には、「悲しむ」という答えが返ってきます。続けて「神さまを悲しませるようなことをしてもいいかな」と尋ねると、「いけない」という答えが返ってきます。子どもたちへの質問は、「お母さんは喜ぶかな」「○○くんは喜ぶかな」と言い換えることもできます。神さまがいつも自分のことを見守っていてくれる、お母さんや友だちが、いつも自分を信頼してくれている。そのことを思い出すとき、何をすればよいのか、何をしてはいけないのかということは、自然と分かるのです。

 「目を覚ましている」とは、自分が神から愛されていること、家族や友人、周りの人たちから愛されていることを忘れないことだといってもよいでしょう。神の愛、人々の愛に「目を覚ましている」限り、わたしたちは、自分の身を律し、神のため、人々のために正しい行いをすることができるのです。どんなときでも、神を悲しませるようなことをせず、ただ神を喜ばせることだけをして生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(127)利益にならないこと

利益にならないこと

自分の利益にならないことを、
「無駄なことだ」と切り捨ててゆくと、
最後には人生そのものが
無駄なことのように思えてきます。
人生の意味は、自分の利益にならないこと、
自分以外の誰かのために
尽くすことの中にこそあるのです。

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