こころの道しるべ(132)ゆるすために祈る

ゆるすために祈る

どうしても相手をゆるせないときは、
ゆるせない自分を責めたり、
開き直って相手を責めたりせず、
「いつかゆるすことができますように」
と祈りましょう。
ゆるしは、
人間の力を越えたものなのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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【講演会in宇部】『何を信じて生きるのか』刊行記念

『何を信じて生きるのか』刊行記念講演会in宇部

カトリック宇部教会を舞台として描かれた片柳神父の最新刊『何を信じて生きるのか』(PHP研究所)の発売を記念して、舞台である当教会で講演会を開催していただくことになりました。混迷する現代社会にあって、わたしたちは、何を信じ、どう生きていくべきなのか。ご一緒に考えられたらと思います。どなたでも、お気軽にご参加ください。

日時

9月23日(金・秋分の日) 10:00~11:30

場所

カトリック宇部教会主聖堂

講師 片柳弘史(カトリック宇部教会主任司祭)

参加無料、申込不要、駐車場有

問い合わせ

カトリック宇部教会 0836-32-7575

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220923『何を信じて生きるのか』宇部.PDF - Google ドライブ

 

バイブル・エッセイ(1044)十字架を背負う

十字架を背負う

 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」とイエスは言います。これはまた、ちょっとイエスらしくない言葉です。「互いに愛し合いなさい」というイエスの教えと、どのように結びつくのでしょう。

 次に続く「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」という言葉が、この謎を解く手掛かりになると思います。十字架を背負うとは、神から与えられた自分の使命を果たす。その使命のために自分の命をかけるということですから、もし家族や自分自身への執着が使命の邪魔をするなら、その執着を捨てなさい、という意味でイエスは「憎め」と言ったのでしょう。イエスはこの箇所の最後で、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とも言っています。家族や自分、すべての持ち物に対する執着を手放さなければ、十字架を背負うことはできない。イエスの弟子として生きることはできない。イエスはきっと、そう言いたかったのでしょう。

 持ち物や家族、あるいは自分自身の命への執着は、わたしたちの判断を誤らせます。この財産を、地位を、名誉を手放したくないと思って神さまのみ旨を無視したり、自分の都合のいいように勝手に解釈したり、そのようなことが起こりがちなのです。その結果、わたしたちは歩むべき道を踏み外し、自分で自分の首を絞めることになります。知恵の書に記されている通り、「死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確か」なのです。

 では、どうしたら執着を手放すことができるでしょう。そのために必要なのは、神さまへの信頼だと思います。イエスは、神のみ旨を信頼し、十字架上で自分の命を神の手に委ねました。それと同じように、神に信頼して自分にとって大切なもの、持ち物や家族、自分の命を神さまの手に委ねるのです。「わたしは浅はかな人間なので、これらのものをどうしたらいいのかよくわかりません。あなたの手に委ねますから、あなたが一番よいと思われるように使ってください」と祈って神の手にすべてを委ねるとき、わたしたちの心は執着から解放され、すべてがよく見えるようになります。執着を手放すとき、わたしたちの心は知恵の霊で満たされるといってもよいでしょう。知恵の書は、「あなたが知恵をお与えにならなかったなら、天の高みから聖なる霊を遣わされなかったなら、だれが御旨を知ることができたでしょうか」と記していますが、神は、神を信頼してすべてを委ねる人だけに「聖なる霊」、知恵の霊を送り、「み旨」を示してくださるのです。

 今日読まれた箇所は、弟子の心得を諭す言葉だと考えたらよいでしょう。何より大切なのは、「自分の十字架を背負う」ということです。神さまから自分に与えられた使命を何より大切に思い、その使命を精いっぱいに果たす。十字架を通して、神さまの手に自分のすべてを委ねる。このことさえ忘れなければ、どんな誘惑や試練がやってきても、わたしたちは道を踏み外すことなく、互いに愛し合って生きられるでしょう。日々、自分の十字架を背負いながらイエスのあとについてゆくことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

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【講演会in神戸】マザー・テレサに学ぶ祈りの心

【講演会in神戸】マザー・テレサに学ぶ祈りの心

 1997年にマザー・テレサが帰天して、今年で25年。この機会に、マザー・テレサを支えた祈りについてお話しさせて頂きます。マザーは、何をどう祈ったのか、どうすればわたしたちもマザーのように生きられるのか、マザーの言葉をたどりながら、一緒に学んでいきましょう。

日 時:2022年10月10日(月・祝) 

    13:00 開場 

    14:00~15:30 講演会

場 所:カトリック神戸中央教会 主聖堂

講 師: 片柳 弘史 神父

              カトリック・イエズス会司祭

※チラシはこちらからダウンロードできます⇒

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*コロナウィルスの蔓延により、関係者に感染者が出た場合には急きょ講演会を中止する場合がございます。悪しからずご了承ください。

*当日特に入場制限は設けておりませんが、出入口での手指消毒、検温、マスクの着用、3密回避へのご協力をお願い致します。

*著書の販売を行いますが予め本にはサインを頂いておりますので、著者との会話もできるだけお控えください。

*開演までの待合室の準備はございません。会場の外でお待ち頂くか、聖堂内で静かなひとときをお過ごしください。

主 催:片柳弘史神父講演会実行委員会

後 援:カトリック社会活動神戸センター

連絡先:カトリック社会活動神戸センター  078-271-3248

こころの道しるべ(131)全身で語る

全身で語る

心の底からあふれ出す笑顔、
きらきら輝く目、
相手の話を
一言漏らさず聞こうとする耳は、
「あなたが大切だ」というメッセージを、
どんな言葉よりも雄弁に伝えます。
言葉だけでなく、
全身で愛を語りましょう。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1043)謙虚に生きる

謙虚に生きる

 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:7-14) 

 「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」とイエスは言います。そうすれば、婚宴の主催者が来て上席に案内してくれるからというのです。イエスの言葉とはいえ、これはちょっとどうでしょうか。自分が上席に案内されることを見越して末席に着くならいやらしい感じがしますし、万が一、上席に案内してもらえなかった場合には「面目をほどこす」こともできません。イエスはなぜ、こんなことを言ったのでしょう。

 おそらく、イエスがこのとき語ったのは、天国の宴席で起こることなのではないかとわたしは思います。この地上で高い地位に着いている人は、天国の宴席に招かれたとき、おそらく自分がここでも一番偉いと思って上席に着こうとするでしょう。しかし、神さまはその人に、「もっと偉い人がここに座るから、あなたは末席で我慢してください」と言うのです。

 では、もっと偉い人とは誰でしょう。それは地上で低くされていた人たちです。目立たないところで黙々と働き、社会を支えていた人たち。誰からも褒めてもらえなくても、家族のため、自分を頼ってくれる人たちのために骨身を削り、一生懸命に働いた人たち。そのような人たちは、天国の宴席に招かれたとき、きっと自分から末席に着こうとするでしょう。しかし、神さまはその人たちを目ざとく見つけて、上席に案内するのです。なぜなら、神さまの目には、自分を誇ることなく、みんなのために自分を捧げた人たち。誰かへの愛のために自分を捧げて生きた人たちこそが、本当の意味で偉い人だからです。

 実際のところ、この世界では、自分を低くしてみんなのために働いている人が上席に上げられるということはほとんどありません。人を蹴落としてでも上席に着こうとするような人が上席に着き、謙虚な人は末席に着いたままというのが残念な現実です。しかし、神さまが、謙虚な人たちを末席に着かせたままにしておくことはありません。天国の宴席では、必ず自分に一番近い席にその人たちを招き寄せてくださるのです。謙虚な人は神さまのすぐ近くで大きな喜びを味わい、傲慢な人は、自分の力を誇る傲慢さが邪魔をして神さまに近づけない。それが、天国での現実なのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。これは、この世界でもある程度まで当てはまることですが、何より神さまの前で起こることだと考えたらよいでしょう。この地上で高くされたり、低くされたりすることは、わたしたちにとっては、ある意味でどうでもいいことなのです。世間からどんなに尊敬されても、神さまから遠ざかれば不幸になるだけだし、見下されたとしても、神さまのそばにいることさえできればそれだけで十分に幸せだからです。わたしたちの幸せは、謙虚な心で人々に奉仕することの中にあり、神さまもそれを一番喜ばれる。たとえこの世界で報われなかったとしても、天国に行けばすべてがわかる。そのことを深く心に刻み、いつも謙虚な心で生きられるようお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(130)苦しみの中にこそ

苦しみの中にこそ

苦しみの中で、わたしたちは
自分のどこが弱いか知ることができます。
弱さを知って
謙虚さを身に着けることができます。
自分と同じ苦しみを味わっている人に
共感できるようになります。
人間の成長は、
苦しみの中にこそあるのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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