バイブル・エッセイ(1064)神の小羊

神の小羊

 そのとき、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:29-34)

 遠くからやってくるイエスを見て、洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。「神の小羊」という言葉は、ミサ式文の新しい訳の中にも繰り返し登場する、とても印象深い言葉です。なぜヨハネは、イエスを見て「神の小羊」といったのでしょう。それはいったい、どういう意味なのでしょう。

 この言葉からまず連想するのは、「生贄の小羊」です。ユダヤ教を始め、古代の多くの宗教には、神の怒りを鎮めるために自分たちにとって大切なものを生贄として捧げるという考え方がありました。イエスは、神と人を和解させるために自分を捧げる「生贄の小羊」だとヨハネは言いたかったのかもしれません。

 では、自分を捧げるとはどういうことでしょう。それは、自分をすっかり神に差し出して、ただ神のみ旨のままに生きるということです。自分の思いを神にお捧げし、神のみ旨のままに生きる。そのことによって、この地上に真理の光、希望の光を輝かせる。それが、「神の小羊」の役割なのです。イエスは、十字架上での死にいたるまで、その役割を立派に果たし、多くの人々を罪の闇、悪の支配から救い出しました。イエスはまさに、ヨハネの言う通り「世の罪を取り除く神の小羊」だったのです。

 ヨハネは、「“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とも言っています。小羊に続いて鳩ですから、ますます話は謎めいてきますが、ヨハネがいいたかったのは、イエスは確かに聖霊に満たされていた。そのことが、表情や話し方、仕草などからはっきりとわかったということでしょう。神にすべてをお捧げし、心がすっかり空っぽになったとき、神はわたしたちの心に聖霊の恵みを豊かに注がれます。喜びや落ち着き、知恵、生きる力、そのようなものがあふれんばかりに注がれるのです。注がれた恵みは、きらきら輝く笑顔、思いやりと力に満ちた言葉、何の躊躇もなく自分を差し出し、人に奉仕する態度などとなって表に現れ、出会う人たちの心を希望の光で照らすのです。

 これで、イエスが「人間を照らす光」であり、「神の小羊」であり、「霊がとどまっていた」というヨハネの言葉が一つにつながるでしょう。自分のすべてを神に差し出したイエスは、いつも聖霊で満たされていた。イエスを満たした聖霊は、光となって人々をまばゆく照らしたということです。

 「神の小羊」の後に従い、「神の小羊」の喜びを共に味わう者の集い、それが「神の小羊の食卓」であり、教会だといってよいでしょう。イエスと共に聖霊の恵みを味わい、神の愛に満たされるとき、わたしたち自身も「神の小羊」になってゆきます。イエスと共に自分を神に差し出し、聖霊に満たされて、希望の光を地上に輝かせる使命がわたしたちにも与えられるのです。「神の小羊」の食卓に与り、「神の小羊」として生きることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(150)気づいて感謝する

気づいてい感謝する

愛されるために必要なのは、
自分が愛されていると気づくこと。
愛されるのを当たり前と思わず、
相手に心から感謝すること。
愛に満たされた人とは、
ほんの小さな愛にも気づき、
感謝して受け止められる人のことです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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こころの道しるべ(149)人生を知る

人生を知る

人と出会えば出会うほど、
それぞれにまったく違った、
味わい深い人生があることが分かります。
人生を知るとは、
人生の正解にたどり着くことではなく、
人間の生き方は人それぞれであり、
たった一つの正解など
ないと気づくということなのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1063)真理を求めて

真理を求めて

 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:1-12)

 三人の学者たちは、東方から自分たちを導いてきた星が幼子イエスのいる家の上に止まったとき「その星を見て喜びにあふれた」、そしてその家に入ると「ひれ伏して幼子を拝んだ」とマタイ福音書は記しています。王だったともいわれるこの学者たち、お金も地位も学識もあり、世間的にいえば十分に満たされていたはずのこの人たちは、なぜはるか東方から、星を追いかけて旅に出たのでしょう。なぜ、ヨセフの家で幼子イエスと出会ったとき、ひれ伏して拝んだのでしょう。

 この時代に長旅をするということは、大きな危険をはらんだことでした。いまほど治安はよくなく、どこで強盗に襲われたり、野犬に取り囲まれたりするかわからなかったからです。それにもかかわらず、この学者たちは、星を目指して旅に出ました。それはきっと、彼らの心の中に、満たされていない部分があったからだと思います。彼らの心の中には、どんなに財産や権力、学識があったとしても、それだけでは満たされない心の虚しさ。真実な人生へ飢えがあったのです。空に輝く特別な星、救い主の誕生を示すその星を見つけたとき、彼らは、真実な人生を求めて旅に出ました。どんな危険を冒しても、旅に出ずにはいられなかったのです。

 長い旅路の果てに、彼らが見つけたもの。それは、母マリアと共にいる一人の赤ん坊でした。救い主は、立派な王さまではなく、なんと母親に抱かれて眠る小さな赤ん坊だったのです。その赤ん坊を見たとき、彼らはその前にひれ伏しました。立派な服を着て宝物を持った学者たちが、小さな赤ん坊の前にひれ伏したところを想像してみてください。彼らは、いったいそこに何を見たのでしょうか。

 いろいろな想像ができると思いますが、彼らはきっと、母の腕の中で眠る幼子の姿の中に、自分たちの救いを見たのではないかとわたしは思います。詩編の131を思い出してみるとよいでしょう。この詩編で、ダビデ王とされる作者は「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」と祈っています。ダビデ王は、世俗での富や権力、名声を求めても、心が満たされることは決してない。母を信頼してすやすや眠る幼子のように、神にすべてを委ねて安らかに生きる。それこそが、本当の幸せだと気づいていたのです。三人の学者たちも、きっと同じことに気づいたのでしょう。だからこそ、幼子であるイエスをひれ伏して拝んだのです。

 この学者たちの姿は、わたしたちに重なる部分があると思います。物質的に満たされても、学校で学んでも、それだけでは満たされないものがある。心を満たしてくれる何かを求めて教会に集まってきたというところで、わたしたちと三人の学者たちは重なるのです。わたしたちは、三人の学者たちのように、幼子の中に人生の真理を見つけ、その前にひれ伏すことができるでしょうか。謙虚な心で真理を求め続けた三人の学者たちにならって、わたしたちも謙虚な心で真理の前にひざまずくことができるようお祈りしましょう。

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バイブル・エッセイ(1062)心に納めて思い巡らす

心に納めて思い巡らす

 そのとき、羊飼いたちは急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:16-21)

 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカ福音書は記しています。他の人たちは「不思議なことがあるものだ」くらいに思って、あまり気にも留めなかった。しかし、マリアは起こった出来事を「すべて心に納めて、思い巡らしていた」というのです。マリアは、神さまがすべての出来事を通してわたしたちに語りかけるということをよく知っていた。だからこそ、すべての出来事を心に納め、神さまが語りかけることを一言もらさず聞こうとしたということでしょう。

 神さまは、すべての出来事を通してわたしたちに語りかける方です。しかし、わたしたちは、マリアのようにそれらの出来事を心に納め、思い巡らしているでしょうか。残念ながらわたしたちは、忙しい毎日の中で、一つひとつの出来事をあまり気に留めず、すぐに忘れてしまうことが多いように思います。「あれもやってこれもやって」とあわただしく過ごす中で、立ち止まって振り返る時間がとれないのです。

 今日は元旦、1年の始まりですが、わたしたちは年末に、過ぎた1年間を静かに振り返る時間を持てたでしょうか。一つひとつの出来事を思い巡らし、その出来事を通して神さまが自分に何を語りかけておられたのか、神さまに尋ねてみたでしょうか。もし忙しくてそんな時間が取れなかったのなら、わたしたちは、せっかくの神さまからの呼びかけを無視して先に進むことになります。せっかく神さまが、わたしたちをこれまでよりずっといい道に導こうとしておられるのに、それを無視して、これまでと同じ道を歩み、同じ間違いを繰り返すことになってしまうのです。

 もし年末に忙しくて1年を振り返る時間がとれなかったのなら、年の初めのいま、その時間をとったらよいでしょう。神さまは、今年、わたしをどこに導こうとしておられるのか。今年、わたしは何を心がけ、何を始めればいいのか。去年の出来事を振り返りながら、神さまに尋ねることができれば、今年はきっと、去年よりもっといい年になるに違いありません。

 一番いいのは、毎日、その日その日に神さまが語ってくださったことを振り返り、祈りの中で思い巡らすことでしょう。1年分まとめて振り返るのもいいですが、毎日、振り返りの時間をとることができれば、神さまの呼びかけをもっと細かく聞き取ることができるはずです。1日の終わりに、たとえ5分でもいいからその日にあった出来事を思い起こし、その出来事を通して語りかけておられる神さまの声に耳を傾ける。それを今年の目標にしたらいいかもしれません。

 大切なのは、人間の思いだけで判断しないということです。「困ったなあ」とか「なんでこうなるんだ」とか、それだけで終わらせず、神さまがその出来事を通して語りかけておられることに耳を傾ける。その姿勢がとても大切だと思います。聖母マリアととともに、起こった出来事を「すべて心に納め、思い巡らす」ことができるように、神さまの導きに従って、よりよい人生の道を選ぶことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(148)愛が生まれる日

愛が生まれる日

クリスマスは、今日で終わるわけではありません。
わたしたちの心に愛が生まれ、
それが笑顔や思いやりとなって
この地上に姿を現すなら、
毎日がクリスマスなのです。
愛が生まれる日、それがクリスマスなのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1061)愛によって生きる

愛によって生きる

  初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:1-5、9-14) 

「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」とヨハネ福音書は記しています。神の言は愛ですから、この世界に存在するすべてのものは、愛によって造られたといってよいでしょう。それだけではありません。ヘブライ書は、神の言、神の愛であるイエス・キリストが「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられる」と語っています。この世界に存在するすべてのものは、愛によって造られ、愛によって生きているのです。

 わたしたちも、その例外ではありません。わたしたち人間も、神の愛によって造られ、神の愛によって生きているのです。そのことは、大きな試練に見舞われたときにわかります。たとえば仕事での挫折。自分の無力さに打ちのめされ、生きる希望を見出すことさえできないとき、わたしたちは、絶望のどん底で愛と出会います。苦しみの底に沈んだとき、わたしたちは、自分の心の底に、そんな自分を受け止めてくれる大きな愛があることに気づくのです。どんなに苦しみの底に沈んだとしても、落ちきってしまうことはありません。わたしたちの心の奥深くには必ず愛があり、その愛がわたしたちを受け止めてくれるのです。愛に受け止められたとき、わたしたちは「ああ、こんな自分でもいいんだ」と思って生きる力を取り戻します。愛の力が、わたしたちを受け止め、もう一度立ち上がらせてくれるのです。

 試練のときだけではありません。日々の祈りの中でも、わたしたちは愛と出会うことができます。自分の無力さを認めてさまざまな執着を手放し、心の奥深くに降りてゆくとき、わたしたちはそこで愛と出会うのです。イエス・キリストと出会うといってもよいかもしれません。キリストは、弱くて欠点だらけのわたしたちをあるがままに受け止め、「あなたはそれでいいんだ。そんなあなたを、わたしは愛している」と語りかけてくださいます。はっきりとした言葉は聞こえなかったとしても、心の底で感じる愛のぬくもりが、わたしたちにはっきりとそう語りかけるのです。その声を聞くとき、わたしたちの心を生きる力が満たします。「こんなわたしでもいいんだ」と自分を肯定し、あるがままの自分を喜んで生きられるようになるのです。

 わたしたちの中に愛があり、イエス・キリストがおられるのと同じように、わたしたちが出会うすべての人の中にも愛があり、イエス・キリストがおられます。誰かと出会い、その人の心の中に愛を見つけ出すとき、わたしたちの心に生きる力が湧き上がるのです。わたしたちは、そのようにして互いに支え合うことで生きている。互いに愛しあうことによって生きているといってもよいでしよう。

 まずは、自分自身の心の中に宿っている愛と出会うことから始めましょう。愛と出会うとき、わたしたちの顔は自然と笑顔になり、口からはやさしい言葉があふれ出します。隣人を、自然と愛せるようになるのです。愛によって造られたわたしたちは、愛によって生きる。そのことをもう一度心に深く刻み、愛に満たされた日々を生きられるよう共にお祈りしましょう。

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