バイブル・エッセイ(504)天に引き上げる力


天に引き上げる力
「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。(ルカ24:46-53)
弟子たちが見守る中で、復活したイエスが天に昇ってゆく場面が読まれました。復活によって永遠の命に移されたイエスが、いま肉体と共に天国の栄光に入ってゆきます。それは、天国への道が開かれたということでもあります。わたしたちも、イエスが通った道を通って天国に行くことができるのです。
 ですが、どうしたら天国への道を上ることができるのでしょう。道と言っても、天に向かってゆく道ですから、歩いてゆくことはできません。オリーブ山には、イエスが天に上がるときにつけたと言い伝えられる足跡がくっきり刻まれた岩があります。地面を思い切り踏みしめ、すさまじい力で地面を蹴ったのでしょうか。実際のところはわかりませんが、ともかくイエスは神の力で天に上がってゆかれたのです。わたしたちがどれほど思い切りジャンプしても、天には届かないでしょう。自分で自分を天に上げようとしても、必ず途中で力尽きて落ちてしまうのです。では、どうしたらイエスが通った道をたどって天国に入ることができるのでしょう。
 わたしたちは、もうその答えを知っています。わたしたちの場合は、マリア様のように神の力によって上げていただけばよいのです。神様がわたしたちを天国へと引き上げて下さるので、わたしたちは神の力に身を委ねるだけでいいのです。天国からやって来た天使たちが、両脇に寄り添ってわたしたちを天国へ運び上げてくれるというようなイメージかもしれません。いずれにしても大切なのは、そのときやって来る神の力に身を委ねることです。もしわたしたちが地上にがっちりとしがみついて手を離さなければ、神の力もわたしたちを天に上げることはできないでしょう。
 それは、死の間際だけに限りません。神は、わたしたちをいつでも天の喜びへと引き上げようとしておられます。わたしたちを天へと運び上げる力は、いまこの瞬間にも働いているのです。信じてすべてを委ねれば、わたしたちの心は自然と天国の喜びに包まれます。地上に生きているあいだも、天国の喜びの中で生きることができるのです。
 大切なのは、地上のものにしがみつかないことです。たとえば、もし財産にしがみつていてれば、天国に引き上げていただくことができません。それどころか、「この財産を奪われたらどうしよう。この財産をどうやって敵から守ろう」と考えて、不安や恐れにとりつかれてしまうでしょう。天の光が届かない、地獄の闇の中で苦しむことになるのです。名誉や権力についても同じことです。地上のものにしがみつくとき、それを奪われることへの不安や恐れ、奪おうとする相手への怒りや憎しみが、わたしたちを地獄の闇へと落とします。天を見上げ、神の愛を信じてすべてを神の手に委ねるなら、そのときわたしたちの心は天国へと引き上げられ、天国の喜びで満たされます。執着を手放すとき、奪われる不安や恐れ、奪っていく相手への怒りや憎しみの闇は消え去るのです。天国の光が心に射し込み、永遠の命の力がわたしたちに宿ると言ってもいいでしょう。
 神を信じ、しがみついているものを手放して神に委ねるとき、わたしたちは天国の喜びへと引き上げられます。わたしたちを天国へと引き上げる力は、いまこの瞬間にも働いているのです。その力を感じ取り、その力に身を委ねることができるように祈りましょう。