余談(1) ブログ、始めました。

 近頃、キリスト教を中心とした一神教に対して非難が集中している。いわく、「独善的、排他的な宗教であって、和を尊ぶ日本人のメンタリティーとは相いれない」、「アメリカが世界を支配しようとするのも、その背景に自分たちだけが正しいという一神教的発想があるからだ」、「そもそもこの世界に正しいことは一つだけだという発想そのものが間違っている」などがキリスト教に対する批判の主なものである。歴史をたどってみても、十字軍、魔女狩り、欧米による植民地支配と表裏一体になった福音宣教など、キリスト教の負のイメージを増幅するような出来事は枚挙にいとまがない。このような現実の中で多くの人は、キリスト教を信じているという人を目の前にしたとき「キリスト教かぁ、実際のとこどないやの?」という懐疑的な反応を示すのではないだろうか。
 キリスト教に対するこれらの批判は、残念ながらある意味で当たっている。確かにキリスト教はかつて多くの過ちを犯してきたし、現在も多くの過ちを犯しつつあるのかもしれない。でも、ちょっと待ってもらいたい。キリスト教を否定するのはいいが、それと一緒にイエス・キリストまで否定してもらっては困るのだ。確かに、キリスト教を信じる人々は自分たちだけが正しいような顔をして他人を見下すようなことがあるし、正義の名のもとに自分たちと異なった考えたかたをする人々を迫害したりもする。しかし、イエス・キリスト自身が何か悪いことをしただろうか。イエスはただ、社会の中で弱い立場に置かれている人々に共感し、貧しい人々を差別したり、搾取したりするような社会は神が望む社会ではないと主張し、貧しい人々ともに生きただけだったとわたしは思う。その結果、貧しい人々を搾取することで安楽な生活を送っていた当時の支配階級からうとまれ、ついに十字架に架けられて殺されてしまった。イエス自身は、自分だけが正しいと主張して人を見下したり、貧しい人を搾取したりするようなことは絶対になかった。イエスは、ただ謙虚に神の声に耳を傾け、神の言葉を人々に語っただけである。
 本当にイエスに従いたいのなら、キリスト教徒もイエスと同じように謙虚に神の声に耳を傾けるべきだろう。自分の不完全さや罪深さを自覚した上で、自分の行動や思いは、はたして神の前に正しいことなのだろうかと絶えず神に問いかけながら生きるべきだろう。正しいのはただ神だけであって、自分たちは不完全な人間にすぎないと認め、ただ神の声に耳を傾けることから本当の意味でのキリスト教が生まれてくるのだとわたしは思う。このブログでわたしは、基本的にこのような立場から、イエス・キリストにかけられた無実の嫌疑を晴らすよう努めたい。
 確かに、キリスト教には反省すべき点がたくさんあるだろう。しかし、悪いのはキリスト教徒たちであって、イエス・キリストの教え自体は決して悪くない。むしろ、地球規模で貧富の差が拡大し、弱者の苦しみや叫びが無視されがちな現代社会にあって、そんな世界は神が望んだ世界ではない、すべての人は限りなく尊い価値をもった神の子なのだと宣言するイエス・キリストのメッセージは、わたしたちの心を揺さぶり、世界を変える力を持っているとわたしは思う。
 このイエス・キリストのメッセージに共感する人が、ブログを通して一人でも出てくれればというのがわたしの切なる願いだ。