入門講座(5) イエス・キリスト②〜「神の国」の教え〜

《今日の福音》マルコ9:30-37
 今日の福音には地名が2つ出てきます。ガリラヤとカファルナウムです。ガリラヤというのはイエスが住んでいたガリラヤ湖周辺の地方の名前で、カファルナウムというのはガリラヤ湖畔にある町の名前です。
 10年以上前に聖地を巡礼し、ガリラヤ湖の周りを自転車で一周したことがあります。現在、ガリラヤ湖の周辺で一番大きな町はティベリアです。ティベリアからアップダウンがきつい道を自転車で1時間あまり行くとカファルナウムに着きます。今では廃墟しか残っていない街ですが、イエスがかつてそこで説教したであろう当時のシナゴーグの遺跡や、ペトロの家と呼ばれている遺跡などがあります。聖書の最後の方のページに地図がついていますから、それで場所を確認してみてください。聖書に地図がついていない場合は、お手持ちの世界地図などで調べてみるといいでしょう。

《「神の国」の教え》
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:14)
 これが、イエス・キリストの福音宣教における第一声だったと言われています。イエスは福音宣教の初めに、何よりも「神の国」が近づいたことを真っ先に人々に知らせたのでした。では、イエスが言う「神の国」とは一体何だったのでしょうか。

1.洗礼者ヨハネによる準備
(1)洗礼者ヨハネの登場
 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マルコ1:3)
 イザヤ書40:3から引用されたこの言葉は、洗礼者ヨハネ(福音記者ヨハネとは別人)に与えられた使命をはっきりと示しています。洗礼者ヨハネの使命は、イエスが現れるまでに、イエスが人々の心に受け入れられるための準備をすることでした。洗礼者ヨハネは、人々に「神の国」が近づいたことを告げ、罪からの回心を呼びかけることで、人々がイエスを受け入れるための下地を作ったと考えられます。
(2)洗礼者ヨハネとイエスの違い
 イエスも「神の国」について語り、罪からの回心を求めましたが、洗礼者ヨハネとはっきりと違う点が2つあります。まず、洗礼者ヨハネが「神の国」が近い将来やってくるということを告げたのに対して、イエスは今ここに「神の国」がやってきたということを告げました。「神の国」はもう始まっている、今わたしたちの生きている現実の中に「神の国」があるというのです。もう一つの違いは、洗礼者ヨハネが「神の国」での裁きを強調したのに対して、イエスは「神の国」での愛の支配を強調したということです。イエスは、「父なる神」の愛が満ち溢れている世界としての「神の国」を人々に告げたのでした。

2.「父なる神」の国
 では、「父なる神」の国とはどのような国なのでしょうか。
(1)わたしたちの父の国
 イエスにとって父である神は、わたしたちひとりひとりにとっても父だと言えます。イエスが「あなたがたの父は、天の父おひとりだけだ」(マタイ23:9)と、はっきりおっしゃっているからです。イエスを子どもとして愛した神は、わたしたちのことも同じように子どもとして愛してくださる神なのです。ですからわたしたちは、主の祈りの中でまず「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけます。
(2)父の愛
 「神の国」を支配する神様は、父のように、あるいは母のように人間を愛してくださる方です。そのことが、イエスの言葉のあちこちに表れています。たとえばイエスは食べ物や着る物のことで心配している人たちに次のように言いました。
 「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、『神の国』を求めなさい。」(ルカ12:30)
 神様は、親が子どものことを心配するように、いつも人間を心配してくださっている。そして、親が子どもに食べ物、着る物、住むところなど、生きるために必要なすべてのものを与えるように、神様もわたしたちにすべてのものを与えてくださる。だから、何も心配する必要はない。ただ神様を信頼して、神様の望むことを行い続けなさい、ということです。
 次の言葉にも、親として人間を愛する神様の愛がはっきり表れています。
 「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる。」(マタイ5:45)
 親が子どもたちをわけ隔てせず、同じように愛するように、神様も人間を平等に愛してくださるということです。善人だから特にえこひいきするとか、悪人だから無視するとか、神様はそういうことをなさいません。わたしたちの行いにかかわらず、いつも同じように愛を注いでくださいます。だからわたしたちは、どんなに失敗を繰り返したとしても、安心して神様のそばにいることができるのです。
(3)放蕩息子の譬え
 このような「父なる神」の愛が最もよく表れているのは、ルカ福音書15章にある「放蕩息子の譬え」です。神様は、人間が神様にどんなにひどい仕打ちをして離れていったとしても、決して人間を見捨てることがありません。神様は、家を飛び出した息子が帰ってくるのを、毎日今か今かと思って家の前に立って待っている父親のような方なのです。わたしたちが回心して神様のもとにもどるならば、いつでも両手をひろげてわたしたちを受け入れてくれる父親、イエスが語る神様はそんな方です。

3.その他の特徴
(1)「神の国」は神様の力で成長する
 「種は目を出して成長するが、どうしてそうなるのか種をまいた人は知らない。」(マルコ4:27)
 種が成長して草花や木になるというのは、本当に不思議なことです。人間は種の成長を助けることができますが、成長するということ自体は種自体の力によるのであって、人間の力の力によるのではありません。「神の国」もそれと同じだとイエスは言います。人間は、「神の国」が成長するのを助けることはできますが、成長それ自体は神様の力によるものなのです。
(2)「神の国」は旧約聖書における救いの約束の成就である
 ルカ4章18節以下に述べられている言葉は、イザヤ61章1節以下の言葉の引用です。「この聖書の言葉は、今日あなた方が耳にしたとき実現した」というイエスの言葉は、かつて預言者イザヤが語った言葉が、今、自分において実現したという意味です。「神の国」は、旧約聖書における神の救いの約束の実現という性質も持っていることがこのような記述からわかります。
(3)「神の国」とイエスは切り離すことができない
 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(ルカ11:20)
悪霊を使って悪霊を追い出しているという批判に対して、イエスはこう答えました。つまり悪霊が逃げていくのは、「神の国」がイエスにおいて実現したからだということです。イエスが悪霊を追い払ったり、人々の病をいやしたりするとき、そのイエスの行いおいて「神の国」が実現しているのです。ですから、イエスと「神の国」は切っても切れない関係にあると言えます。

4.「神の国」の実現
 では、「神の国」とわたしたち現代に生きるキリスト信者はどう関係するのでしょうか。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)とイエスは言います。
(1)この世界と「神の国」の連続性
 「神の国」をこの世界とは別のもの、遠い未来にどこかからやってくるまったく別次元の世界と考えるべきではないと思います。むしろ、この世界の延長線上にあると考えた方が、わたしたちにとって意味があるでしょう。この世界が「神の国」に次第に変えられていき、いつか神の最終的な介入があってその変化が完成するというイメージです。その始まりは、イエス・キリストの宣教活動でした。
(2)人間の応答
 イエスにおいて始まった「神の国」の特徴の1つは、人間の応答があって初めて実現するものだということです。病気を癒すなどの奇跡の場面でイエスは、たびたび次のように言いました。
「あなたの信仰があなたを救った。」(マルコ5:34)
 癒しの奇跡は、「神の国」においてすべての人の病が癒されることの先取りだと考えられますが、このイエスの言葉から「神の国」が実現するためには人間の信仰が必要だと言えるでしょう。神がどれほどこの世界に神の支配する愛の国を実現したいと望んでも、人間がその望みに応えない限り地上に「神の国」が実現することはないということです。そもそも人間イエスが信仰によって神に自分のすべてを委ねなければ、地上に「神の国」が始まることもなかったと言えます。わたしたちが自分の利益ばかり考えて神にすべてを委ねないならば、イエスにおいて始まった「神の国」は消えてしまうかもしれません。逆に、わたしたちが自分を捨てて神にすべてを委ねるならば、イエスにおいて始まった「神の国」はこの地上に少しずつその姿を現していくことでしょう。わたしたちは、「主の祈り」の中で「御国が来ますように」と祈りますが、御国が来るためにはまずわたしたちが神の呼びかけに応答し、ただひたすらに「神の国」を求め続けることが必要なのです。
(3)愛の実践
 では、神が望むこととはなんでしょうか。それは、とてもはっきりしています。神の望みは、次の言葉に集約されます。
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。…隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:37-39)
 神の呼びかけに応え、地上に「神の国」を実現するとは、私たちにとって、神を愛し、隣人を愛するということに他ならないのです。神がすべての人間を慈しみ、平等に愛するように、わたしたちもすべての人間を、嫌いな人や自分を攻撃するような人も含めてすべて愛するというのが神の望みであり、それが実行できたとき初めてこの地上に「神の国」が実現するのです。
そんなことはできない、人間には無理だという人もいるかもしれません。しかし、イエスははっきりと次のように言います。
 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)
 そんなこと人間にはできないという人は、人間として十字架上で苦しんだイエスが、自分をこれから殺そうとしている人をさえ愛したことを思い出すべきでしょう。イエスは自分を殺そうとしている相手にさえ共感し、彼らのために祈ったのです。
 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)
ここに、神を信じた人間が到達できる究極的な愛が示されていると思います。わたしたちも、「主の祈り」を唱えながら真剣に「神の国」の実現を望むのならば、イエスのこの愛に倣うべきでしょう。自分を捨て、神にすべてを委ねるならば、神はこれほどまでの愛をわたしたちの心の中に実現してくださるのです。
(4)「最後の審判」の基準
 「神の国」が最終的に到来するとき、「最後の審判」が行われるとわたしたちは信じています。そのときには、神の御旨にかなった人だけが「神の国」に迎え入れられます。では、「神の国」に迎えられるかどうかの基準はなんでしょうか。それは、隣人を愛したかどうかということです。「神の国」に迎え入れられた人々に対して、選ばれた理由を次のように言いました。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25:34)
 苦しんでいる人、困っている人のために、自分を犠牲にしてでも愛を注いだ人だけが「神の国」に迎え入れられるということです。「神の国」は、すべての人が神の愛によって大切にされる世界ですから、この世界で隣人愛を実行していた人は、その世界に自然に入っていくことができるでしょう。逆に、そのようなことはできないと拒んでいた人は、仮に神様が「神の国」に招いてくれたとしても、その世界に入りたくないと思うのではないでしょうか。「神の国」では、自分だけを大切にしてほしいというエゴイズムは受け入れられないからです。
エスは、さらに驚くべきことを言います。
「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
 苦しんでいる人や困っている人のためにしたことは、イエスにしたことだというのです。マザー・テレサはこの言葉が大好きでした。彼女はこの言葉をさらに発展させ、「わたしたち貧しい人々においてイエス・キリストと出会います」とまで言いました。マザー・テレサが大好きだった祈りの1つに5本指を使った祈りというのがあります。それはこのイエスの言葉(英語でYou did it to me.)に合わせて一方の手の指を1本ずつ伸ばし、もう一方の手の指を「わたしは、神の祝福を受けて聖なる者になることを望み、聖なる者になります(I will, I want, with God’s blessing , be holy.)」という言葉に合わせて1本ずつ伸ばし、開いた両手を合わせて祈るというものでした。わたしたちもマザー・テレサと心を合わせ、すべての人の中にイエスを見つけ出し、すべての人を自分自身のように愛せるよう祈りたいものです。

《参考文献》
・岩島忠彦、『イエスとその福音』、教友社、2005年。
・百瀬文晃、『キリスト教の輪郭』、女子パウロ会、1993年。