バイブル・エッセイ(5) 罪人を救うために?


 エスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:10-13)
 「正しい人ではなくて、罪人を招くために来た」と言われると、「えっ、なんで?」と思う人もいるでしょう。なんで悪いことをした罪人が天国に招かれて、いいことをした正しい人が招かれないんだろう、そんなのおかしいと思う人がいても不思議ではありません。この箇所を理解するために、きっと次の話が役に立つでしょう。
 太郎君は小学校の2年生です。あるとき、太郎君の学校で悲しいことが起こりました。担任の先生が病気になって入院してしまったのです。先生のことを心配した生徒たちは、学級会で話し合って先生に毎週お花を送ることにしました。このことが決まったとき、太郎君は正直言って困ったなと思いました。太郎君の家にはお金があまりなかったからです。
 しばらくして太郎君がお花のためにお金を持ってこられないことが分かると、金持ちの子どもたちは太郎君の悪口をいいました。「お前は、先生のことが好きじゃないんだな。あんなにお世話になったのに。お前なんか悪い子だ。お前なんかと一緒に食事しないぞ。」
 太郎君は泣きながら家に帰って、どうしたらいいだろうと考えました。そして、先生に葉書を1枚書くことにしたのです。太郎君はこう書きました。「先生、早く元気になって帰ってきてください。お祈りしています。」
 3か月ほどして、先生が教室に帰ってきました。給食の時間になって、金持ちの子どもたちは驚きました。先生が、太郎君のそばに座って食事を始めたからです。金持ちの子どもたちは言いました。「先生、ぼくたちは先生に花を送ったいい子なのに、どうして太郎のような悪い子と一緒に食事をするんですか?」先生は答えました。「太郎君もきみたちも、先生のことを思ってくれるとてもいい子たちだ。先生にとってはどちらも同じようにかわいい生徒だよ。」
 この話を聞いて、太郎君のことをどう思ったでしょうか。太郎君はお金をかけて先生のために何かを買ってあげることはできませんでしたが、先生のために一生懸命お祈りのしたのです。太郎君のことを「悪い子」だと思う人がいますか?
 イエスは、この話の先生と同じようなことをファリサイ派の人々に言いたかったのだと思います。ファリサイ派の人々は神様に贈り物をすれば「正しい人」だし、贈り物ができなければ「罪人」だと思っていました。でも、神様の目から見たら、どちらの人たちも同じように大切な神様の子どもなのです。そのことをファリサイ人たちに分からせるために、イエスはわざと罪人と一緒に食事をしたのでしょう。だから、みなさんも安心してください。神様のために何か立派な目立つことができなくても、太郎君のように人を思いやる心を持ち、神様にお祈りする子どもは、みんな神様から愛された「神様の子ども」なんですよ。
※写真の解説…エーデルワイスとてんとう虫。六甲山・高山植物園にて撮影。