余談(3) なぜインターネット?

 近頃、インターネット関係の本をまた何冊か読んだ。現代人、特に若者の多くがパソコンないし携帯電話を通して入り込み、長時間を過ごしているというインターネットの世界でいったい何が起こっているのかを知りたかったからだ。本を読むのと並行して、教会に来ているたくさんの若者たちからもインターネットをどう利用しているかについて尋ねてみた。
 いろいろ読んだり聞いたりしているうちに一つ思ったのは、現実の世界で自分の居場所を見つけられない多くの若者たちが、インターネットの世界に自分の居場所を見つけようとしているのではないかということだ。わたしが10代や20代前半の頃にはまだインターネットがほとんど普及していなかったから、わたし自身はインターネットの中に自分の居場所を探した体験がない。だが、現実世界で自分の居場所を持たない若者たちが、自分の居場所をどこかに必死で探す気持ちはよくわかる。なぜなら、わたし自身も現実世界に居場所を持たない時期が長くあったからだ。
 居場所を持たないというのは比喩的な表現で、もちろん住む家がなかったとか、自分の部屋がなかったとかいうことではない。自分が受け入れられる場所、人とのつながりのなかで自分の存在に意味を見いだせる場所がなかったということだ。大学時代に始めた法律の勉強を途中で断念してインドに行ってしまったわたしは、勉強を断念した学生時代の後半からイエズス会に入る少し前まで自分の居場所がないと感じ、必死で居場所を探していた。勉強しているあいだは、ともに勉強する仲間たちとの交わりがあり、教室や図書館という居場所があったのだが、勉強をやめることでわたしはそれを失ってしまった。インドに行っているあいだはボランティアとしての居場所があるにはあった。だが、その居場所がいつまでもいられる場所でないことも分かっていたから、状況はあまり変わらなかったと思う。インドにいた頃のわたしは、日本に帰ってどこに戻るのかということを必死で考えていた。大学4年生のときに洗礼を受けたのも、聖書研究会という場所を自分の居場所にしたからだったかもしれない。聖書研究会に集まってくる人たちのコミュニティーに受け入れられることで、自分の居場所を見つけたかったのだと思う。
 もしあの頃にインターネットがあったら、わたしはきっと深くのめりこんでいたかもしれない。インターネット上で生まれる人間同士のつながりのなかに、自分の居場所を見つけようとしていたかもしれない。自分が受け入れられ、必要とされる場所をそこに求めて。そう思うと、現代の若者たちがインターネット上に自分の居場所を探そうとしている気持はよくわかる気がする。
 ネット上にそのような場所を探すこと自体は決して悪いことではないし、わたし自身多かれ少なかれネット上での人間関係に支えられて生きている。だが、もし現実社会に自分の居場所が見つけられないまま、ネット上をさまよっている若者たちがたくさんいるとすれば、それは不幸なことだろう。リアルな人間関係の中にしか見つけられない自分の存在意義というものもあると思うからだ。そのような若者たちに、現実世界にもきみたちの居場所、きみたちがありのままでいられる場所がある、それが教会だと言えたらどんなにいいかと思う。もちろん現実の教会にはたくさんの問題があって、簡単にそう言い切ることはできない。だが、わたしはそういう思いをもちつつインターネットに関心を持っている。インターネットを通して若者たちの声に耳を傾け、少しでも彼らの求めに答えていくことができればいいのだが。
《最近読んだ本》

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944)

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点 (文春新書)

ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点 (文春新書)