入門講座(8) イエス・キリスト⑤〜なぜ「三位」が「一体」なのか〜

《今日の福音》マタイ5:13-16
 「地の塩、世の光」という言葉で有名な箇所です。塩は周りのものを清め、光は周りのものを照らしますから、わたしたちも周りの人々の心を清め、また照らしなさいとイエスは言っているのだと思います。より具体的に言えば、出会う人々の心に神への畏れと尊敬をよみがえらせ、イエス・キリストによる救いの希望をもたらしなさいということでしょう。
 人々の心を清め、キリストの光で照らすには、まずわたしたち自身がイエス・キリストによる救いを十分に味わい、救いの喜びで満たされている必要があると思います。そのためには、前回までに学んだようなイエス・キリストの救いの意義をよく理解し、わたしたちの胸の深みにまで落としておく必要があるでしょう。
イエス・キリスト受肉しなければ、わたしたちは神の本当の姿を知らないままだったこと。
②「神の国」の教えがなければ、わたしたちは神の愛を知らないままだったこと。
イエス・キリストの十字架上の死がなければ、神と人間のあいだに完全な愛の交わりが生まれることがなかったこと。
イエス・キリストの復活がなければ、わたしたちは生きたイエス・キリストと出会えなかったこと。
 これらの恵みを祈りの中でしっかり味わう中で、わたしたちの心の中に神への感謝が生まれ、喜びの光が燃え上がるとき、わたしたちは地を清める塩、地を照らす光になることができるのではないかと思います。

《なぜ「三位」が「一体」なのか?》
 一神教であるユダヤ教から生まれたキリスト教は、基本的に一神教の流れを引き継いでいます。キリスト教も唯一の神を崇めているのです。しかし、キリスト教の聖書や礼拝に接すると、父・子・聖霊という3つの存在が神として崇められているようにも見えます。あたかも3つの神を崇めているかのようです。
 この外見的な矛盾を解決し、神は3つでありながら1つであることを説明するために、キリスト教では三位一体という教義が教えられてきました。神の中には父・子・聖霊という3つの位格が存在するが、それらは究極的には唯一の神だということです。位格というのは聞きなれない言葉かもしれませんが、ここでは、唯一の神の中にある区別というふうに理解しておいてください。
 今日の講座では、3つのものが1つであるというこの神秘的な教義について、キリスト教の伝統の中でどのような理解がされてきたのかということをお話しします。

1.伝統的な三位一体論
 最初に、伝統的な三位一体についての説明を3つご紹介します。
(1)イメージを用いた説明(テルトゥリアヌス、オリゲネスらによる)
 2世紀頃にされた最も古い説明は、太陽、木、川などのイメージを使って、①父なる神がすべての源であること、②3つのものが1つであるということが可能だということを説明するものです。具体的に言えば、①父なる神は太陽、キリストは光線、聖霊は光線が物に反射した時に生じる輝きである、②父なる神は木の根、キリストは幹、聖霊は枝である、③父なる神は泉、キリストは川、聖霊は水路であるというような説明です。
 これらの説明は、ある意味でわかりやすく、子どもでも理解できるものでしょう。ですが、子と聖霊の間にどのような関係があるのか、子や聖霊に固有の働きがなんであるのかが十分説明されていないという弱点があります。
(2)心理学的な説明(アウグスティヌストマス・アクィナスによる)
 時代が進んで4世紀頃になると、より精緻な説明がされるようになります。人間が自分自身を愛するときの心理から類推して、父・子・聖霊の区別と相互関係を説明しようとするものです。
 まず、人間の心に自分への愛が生まれるまでの流れを考えてみましょう。愛が生まれるためには、まず愛する対象を知ることが必要です。知るためには、知性を働かせなければなりません。知性を働かせることで、わたしたちは自分がどんな人間であるかを言葉で表現し、理解します。自分を「いい人」、「親切な人」、「誰それのお母さん」、「誰それの妻」、「婦人会会員」という風に言葉で表現することで、自分に対する理解が深まっていくのです。理解することで、わたしたちの心に自分への愛情が生まれてきます。そのようにして理解した自分を愛したいという意思が生まれてくるのです。以上のことから、人間の心に自分への愛が生まれるためには、知性・言葉・意思という3段階が必要なことがわかります。
 神の中にも同じような心の流れがあると昔の人は考えました。知性である父なる神は、言葉であるイエス・キリストをとおして自分を知り、意思である聖霊において自分を愛するはずだということです。父なる神が自分を知り、自分を愛するためには、どうしても父・子・聖霊という3段階を経なければならない、だから神の中には三位が存在するのだと昔の人は考えたのです。難しい理屈を考えたものだと思います。
 この説明は、三位一体についての最も有力な説明の1つだと言えます。ですが、なぜ神が三位である必要があるのか、根本的なところで説明できていません。なぜ人間の心の中にある動きが神の中にもあるはずだと言えるのかが分からないからです。また、三位の違いを神が現れるときの様態の違いとして理解してしまうと、三位に固有の意味がなくなってしまいます。
(3)人間関係からの説明(リカルドゥス、ボナヴェントゥラによる)
 3つ目の説明は、人間のあいだに生れる愛情から三位を説明しようとするものです。
 そもそも愛は、2者のあいだに生れるものです。誰かが誰かを愛し、結ばれるというのが愛の基本でしょう。しかし、その愛が「至高の愛」、「完全な愛」であるためには、2人だけのあいだにとどまっていてはだめだと考えられます。2人だけの世界にとどまり、2人さえ幸せならばいいと考えるなら、それはとても利己的な態度だからです。2人のあいだに生れた愛は、第3者に対しても同じように向けられることで完全なものになるのです。
 このことは神にも当てはまるはずだと昔の人は考えました。父と子のあいだに生れた愛は、第3者である聖霊に対して開かれることで完全なものとなる。だから、神には三位が存在するのだと考えたのです。
 この説明はわかりやすいですが、こう考えると神の三位が3つの別々の人格のように誤解されてしまう可能性があります。3つの別々の神が、1つの愛の中で結ばれているという考え方は、神が唯一だという教えに矛盾してしまいます。

2.神体験に基づく説明
 これらの説明を踏まえた上で、カール・ラーナーは人間の神体験から出発した三位一体論を展開しました。三位一体論の出発点は、わたしたちキリスト信者が聖霊である神、子である神、子と聖霊を通して父なる神と出会ったという体験にあるということです。以下では、ラーナーの考えに基づいて三位一体を説明してみようと思います。
 神が唯一であるのは当然の前提ですが、まったく不可解なことに神はわたしたちに父、子、聖霊という3つの仕方で御自身を現わしました。このことから、わたしたちは神に三位の区別があると考えざるをえません。なぜ三位の神が唯一だと言えるのか、三位は相互にどのような関係にあるのかを説明する必要も生まれてきます。わたしたちの体験に基づいて、三位の性質や相互関係を説明するならば、次のようになるでしょう。
(1)父なる神
 父なる神は、人間の理解を越えた神秘だといえるでしょう。わたしたちは、直接神の声を聞いたり、神を見たり、神に触れたりすることができませんが、神は全能の力をもってわたしたち人間に働きかけてきます。わたしたち人間にとって、父なる神は測り知れない闇であり、不可解な混沌だということができるでしょう。イエス聖霊の登場を待って、わたしたちは初めて父なる神がどのような方かを知ることができます。イエスの言葉と行いや聖霊の力から、わたしたちは、父なる神が愛の神であり、イエス・キリストの父であり、聖霊の源であることを知ることができるのです。
(2)子なる神
 子なる神、すなわちイエス・キリストは、人間に対する神の完全な自己表現だと言えます。なぜなら、わたしたちはイエス・キリストの言葉と行いを通して、神がどのような方であるかを知ることができるからです。イエス・キリストの存在そのものが、神の御言であり、人類に対する神のメッセージだということができるでしょう。その意味で、イエス・キリストは闇の中に隠れた父なる神の姿をわたしたちに照らし出す光だとも言えます。また、イエス・キリストは世界を整える秩序であるとも言えます。イエス・キリストがいなければ、わたしたちは世界がどのようにあるべきかを知ることができないからです。このような神の御言としてのイエス・キリスト理解を、「ロゴス・キリスト論」と呼ぶこともあります。
(3)聖霊なる神
①父なる神の力
 聖霊がどのような方であるのかを説明するのはなかなか困難です。なぜなら、聖霊は形を持たないからです。聖霊を比喩的に説明するならば、父なる神の力だと言えるでしょう。イエス・キリストを満たしている父なる神の力は、イエス・キリストと出会った時にわたしたち人間にも与えられます。わたしたちがイエス・キリストと出会ったときに、わたしたちの心の奥底から湧きあがってくる父なる神の力、それを聖霊と呼ぶことができるのではないでしょうか。
 聖霊の力は、ときに人間に肉体的な癒しをもたらす場合もあります。それが、イエス・キリストが行った奇跡のメカニズムだと言えるでしょう。イエス・キリストとの出会いによって、心の中に聖霊の力が湧き上がり、その力によって病が癒されたり悪霊が追い出されたりすることがあるということです。上智大学の岩島忠彦教授は、聖霊を「イエス・キリストにおける神の働き」と定義していますが、この定義もそのような聖霊の力を表現したものだと思われます。イエス・キリストが行った奇跡や愛の業は、聖霊の力によるものだということでしょう。
②自分を乗り越える力
 ラーナーは、人間が神に向かって自分を乗り越えようとするときに働く力が聖霊だという説明もしています。そのように考えると、イエス・キリストを知らない人であっても、利己的な考えを捨て、神の意思に従って隣人を愛し、困っている人々に奉仕するときには、心に聖霊が働いていることになります。
③喜び、生きる力、落ち着き
 譬えを使って、次のように説明することもできるでしょう。わたしは自然の中を歩き回るのが大好きで、歩いていると嫌なことはすべて忘れてしまいます。明日から生きていくための力さえ、心の底から湧いてくるようです。わたしはそんなとき、今日出会った自然の力が自分の体に宿ったのだと感じます。
 祈りの中でイエス・キリストと出会った時にも、同じことが起こるようです。イエスと出会うと、それまでにどんな嫌なことやつらいことがあったとしても、喜びや生きる力、落ち着きなどが心の底から湧きだしてきます。まるで、イエスの力がわたしの体に宿ったかのようです。
 そのようにして生まれてくる喜び、力、落ち着きこそが聖霊なのではないかとわたしは思っています。イエスを満たしていた父なる神の力がわたしの心の奥底に与えられ、わたしの心を力で満たしていくということでしょう。自然を生かしているのも究極的には神の力ですから、わたしが森の中を歩いているときに与えられる力も実は聖霊の力なのだと言えるかもしれません。
④電気のような存在
 確かリジューのテレジアだったと思いますが、聖霊を電気に譬えた聖人がいました。電気は目で見ることができませんが、働いているときにははっきり分かります。電灯が輝いたり、モーターが動いたりするからです。聖霊も同じで、目で見ることはできませんが、働いているときにははっきり分かります。その人の顔を明るく輝かせたり、その人を愛の業へと動かしたりするからです。

3.では、イエス・キリストは神なのか?
(1)次の問題
 こうしてなんとか三位一体についてぼんやり理解ができてくると、次にもう一つの大きな問題がわたしたちの前に立ちはだかります。それは、イエス・キリストが神なのか人間なのかという問題です。
 三位が一体だとすれば、イエス・キリストは神と不可分の存在であり、神そのものに他ならないということになります。しかし同時に、神と人間のあいだの橋渡しをしたり、神と人間のあるべき姿をわたしたちに示したりするために、救い主イエスは完全に人間でもなければなりません。ですが、無限と永遠の中に存在する神が、同時に有限であり、時間に縛られた人間だということは、わたしたち人間が考える限りではありえないことです。この矛盾をどう説明したらいいのでしょうか。
(2)位格的結合
 この点についてキリスト教は、「イエス・キリストは、完全に神であると同時に、完全に人間である」とだけ教えています。それ以上の説明は与えられていません。キリスト教は、人間の目から見ると矛盾に見える事実、イエス・キリストにおいて実現した「神が人間であり人間が神である」という事実を、神の神秘としてそのまま保存することにしたのです。このことを、専門用語では「位格的結合」と呼びます。子の位格の中で、神と人間が相互に混じり合うことなく、また分離することなく結合したという意味です。
 イエス・キリストは、完全な神でありながら、完全な人間でした。この事実こそが人類に与えられた救いであり、その救いは人間の理解をはるかに越えているのです。
(3)救いの根幹としての位格的結合
 位格的結合の教えは、これまでに学んできたイエスの救いの土台となるものであり、キリスト教教義全体の中でも根幹となる大切な教義です。もしイエスが完全な神であると同時に完全な人間でなかったならば、わたしたちはイエスを通して神の姿を知ることができなかったでしょう。また、「神の国」の教えが真実であると確信することもできなかったでしょう。さらに、十字架上で神と人間のあいだに完全な愛の交わりが結ばれることもなかったでしょうし、復活したイエスがわたしたちと共にいてくださるということもなかったでしょう。イエス・キリストがもたらした救いのすべては、イエス・キリストが「完全な神であると同時に、完全な人間でもあった」という事実にかかっているのです。

《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・ラーナー、カール、「三位一体に関する考察」、神学ダイジェスト57号、1984年。
・ラーナー、カール、「霊の体験」、神学ダイジェスト55号、1983年。
・岩島忠彦、『イエスとその福音』、教友社、2005年。