入門講座・番外編 ゆるされてゆるす

 「ゆるし」については、夏休み明けに「ゆるしの秘跡」を取り扱うときに詳しく説明しようと思っている。だが、最近「ゆるし」について何人かの方々から質問があり、わたし自身にとっても日々の生活の中で実践するのが最も難しいことの一つだと思われるので、ここで簡単にわたしが「ゆるし」ということについて今考えていることをまとめておきたい。

1.なぜ腹が立つのか?
 まず、なぜ誰かに対して腹が立つのかについて考えてみたい。たとえば、次のような場合を考えてみよう。あるクラスの中に、先生のご機嫌を取るのが上手で先生にかわいがられているが、同時に先生に同級生たちのいたずらや失敗などを告げ口するのが好きな生徒がいたとする。その生徒に対して、他の生徒たちはどのような態度をとるだろうか。二つの場合が考えられると思う。ひとつは、そんなことをする生徒に腹を立てて、その生徒を仲間外れにするという態度である。きっとこちらが多くの生徒のとる態度だろう。しかし、別の態度も考えられる。そんなことをしてまで先生に気に入られなければ落ち着かない生徒をかわいそうに思って、かえってその生徒にやさしく接するという態度である。
 この二つの態度の違いはどこから生まれてくるのだろうか。こういうことではないかと、わたしは思う。同級生たちがなぜその告げ口する生徒に腹を立てたかと言えば、自分も先生にかわいがってもらいたいという思いが強くあるからだろう。本当は自分もかわいがってほしいのに、自分の悪口を言って先生に取り入っている生徒がいれば腹が立って当然だ。ほんとうは自分がかわいがってほしいのにという思いが、相手に対する激しい怒りを生むと考えられる。自分がまだ十分に先生に理解されていない、先生から受け入れられていないという不満も、その怒りを増幅するだろう。それに対して、腹を立てなかった生徒はきっと自分と先生の関係に十分に満足しているし、学校でたくさんの友だちがいることや勉強できることを喜んでいる生徒だろうと思う。先生にひいきされなくても学校はそれ自体として十分に楽しいし、みんなと一緒に勉強したり遊んだりできれば十分だと思っている生徒は、告げ口をしてまで先生に取り入って、みんなから仲間外れになっているような生徒を見たときに、きっと怒りよりも憐みを感じるのではないだろうか。先生や仲間から十分に愛されていると感じている生徒は、自分に対して理不尽な攻撃をするような生徒であってもゆるし、受け入れることができるということだ。「赦されたことの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:37)とイエスは言ったが、つまり「愛されたことが少ない者は、人を愛することも少ない」ということだろう。
 この話から、ある種の怒りは自分の世界や自分自身に対する態度から生まれてくるということが言えると思う。自分自身の現在の状態に不満を感じ、もっと自分が注目されたい、もっと自分が愛されたいと思えば、周りの人が自分より注目されたり愛されたりしているのを見たときに当然腹が立つ。本当は自分が愛されるべきなのになぜあんな奴が、ということだ。それに対して、自分自身が現在置かれている状態に十分満足していれば、他の人が不当に自分よりも愛されているのを見たとしても、別に腹は立たないだろう。
 人間は、自分自身に欠けているもの、自分がほしくて仕方がないものが他の人に不当に与えられていると感じたときに腹を立てることが多いと言えるのではないだろうか。もちろんそのようなケースばかりではなく、まったく不当なしうちに対する正当な怒りというものもありうる。殺人事件のような場合だ。だがわたしが見ている限り、わたしたちが日常生活の中で体験する怒りというものは、このケースで見たような人間の複雑な思いから生まれる愛憎劇である場合が多い。家庭でも、学校でも、会社でも、教会でも、人間関係が存在するところどこにでもこの種の愛憎劇が繰り広げられているように思える。
(先日の秋葉原の事件は、自己疎外感をつのらせた青年が「自分を愛してくれ、認めてくれ」という思いをまったく誤った形で爆発させた結果として起こった事件だと考えることもできるから、ここで取り上げたような愛憎劇に端を発して殺人事件にまで発展したケースだとも考えられる。)

2.不完全な自己認識
 では、このような怒りを鎮め、相手をゆるすにはどうしたらいいのだろうか。多くの場合、怒っている人は自分がなぜ怒っているのかにさえ気づいていないのではないかと思う。先の例でいえば、激しく怒っている生徒になぜそんなに怒っているのかと聞けば、「あいつは自分のことしか考えていない。ぼくたちの悪口を言うなんてゆるせない」という答えが返ってくるだろう。だが、一歩進んでなぜ誰かが先生に自分の悪口を言うことにそれほどまでに腹が立つのかというところまで聞いてみると、答えられる生徒は少ないのではないだろうか。自分がもっと先生からかわいがられたい、自分は十分に先生から認められていないという思いがその怒りの背後にあるはずなのに、本人はそれに気づいていないのである。子どものころから自分は十分に認められていない、誰かから、特に親や先生から認められたいという不満を抱いていると、それが親や先生から認められている他人に対する嫉妬や怒りになって爆発することがあると思う。
 先生に同級生の悪口を言って同級生から嫌われているその生徒にも、きっと腹を立てている生徒と同じような思いがあるのだろうと思う。自分は先生から認められていない、愛されていないという強い不安感が、なりふりかまわぬご機嫌取りや同級生の中傷という形で表れているのではないだろうか。もちろん、多くの場合、その生徒もなぜ自分がそのような行動に出てしまうのかに気づいていない。
 そのように考えていくと、告げ口の生徒も激しく怒っている同級生も、どちらも似た者同士だということができるだろう。両方とも、親や先生から認められたい、そうでなければ安心できないという強い思いを持っており、それが違った仕方で表れているだけだとも言える。結局、両方とも同じ人間的な弱さを抱えた者どうしなのだ。子どもの頃になんらかの理由で背負った、自分は親や先生から愛されていないという思いが彼らを理不尽な行動や激しい怒りへと駆り立てているのだが、本人たちはそのことに気づいていない。
 この事実に気づくならば、お互いをもっと違った目で見ることができるのではないかとわたしは思う。お互いが弱い人間同士、傷を負った人間同士だということに気づけば、そこにある種の共感や同情が生まれ、それが互いへのゆるしにつながっていくのではないだろうか。

3.過去への囚われ
 過去に起こったことにいつまでも腹を立てている人もいる。根源的なところで過去を見直し、自分と和解していくという作業も必要だが、いつまでも過去のことばかりに囚われているのはどうかと思う。誰かに対して怒りを抱き続けるということは、自分を非生産的で不愉快な怒りのエネルギーの中に閉じ込めるということだ。そのような怒りは、徐々にその人の精神を荒廃させ、根まで枯らしていってしまう可能性がある。横溝正史の小説に『真珠郎』というのがあったが、怒りや憎しみのエネルギーはあの物語で描かれているような憎悪の渦巻く陰惨な世界を自分のまわりに生み出してしまう。
 そのような世界に閉じこもっているのは、ある意味でもったいないことだとわたしは思う。ちょっと目を外に向ければ、どこまでも雲一つなく澄み渡った青空や、道端で可憐に咲く花々、木々の緑や川の流れなどを通して、神様がわたしたちに語りかけている。出会う人たちとのちょっとした会話の中でも、神様がわたしたちに語りかけている。自分を怒りの世界に閉じ込めていると、そのような神様の語りかけに気づけなくなってしまうことが多いように思う。それが怖い。神様の恵みはいつでもわたしたちに豊かに注がれているのに、過去に起こったたった一つの出来事への思いがそれらを無にしてしまうのだ。気がつきさえすれば、神様は今、この瞬間にあふれるほどの愛をわたしたちに注いでくださっているのに、いつまでも過去に縛られてその愛に気づかないというのは本当にもったいないと思う。今、この瞬間に神の愛を全身に浴びながら過去のことを振り返れば、あんな小さなことはもうどうでもいいなと思えるようになるかもしれないのだが。

4.イエスのゆるし
 今わたしが長々と話したようなことは、理屈では十分に分かっている。でもそんなこと実際にはできないという人、特にキリスト信者に思い出してほしいのは、十字架上でのイエスの姿だ。イエスは、十字架上で、今から自分を殺そうとしている兵士たちのために祈った。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)とイエスは祈ったのだ。ちょっと悪口を言われたり、何か不愉快な目にあったりしただけで、誰かに対して腹を立てているわたしたちとイエスの間には、どれほどの隔たりがあるだろうか。
 イエスの祈りは、きっと次のように続く。「彼らが自分のしていることの間違いに気づき、あなたの御下に立ち返ることができますように。」わたしたちも、イエスに心を合わせて、自分自身への執着を捨て、ただ神の御旨がこの世界に行われるようにと祈りたいものだ。

5.マザー・テレサの言葉
 「ゆるし」について書きたいことはまだ1ダースくらいあるし、今書いたことだけではいろいろな複雑なケースに十分対応できないということも分かっているのだが、最後にマザー・テレサの言葉を一つ紹介してこの番外編講座を終わりたい。詳しくは、また後期の講座で。

「もしわたしたちが神様の前で十分に自分を受け入れることができれば、
 どんな賞賛の言葉もわたしたちを思いあがらせることはできないし、
 どんな中傷の言葉もわたしたちを傷つけることはできません。」