フォト・エッセイ(14) 平等院鳳凰堂


 三室戸寺の帰りに、宇治の平等院まで足をのばした。
 宇治川に架かる橋を渡って鳳凰堂にたどりついたとき、まず建物の美しさに心を奪われた。とりわけ左右の張り出し部分が生み出す繊細で気品のあるシンメトリーは、「なんなんだろう、これは」と思わせるほど新鮮な美しさとしてわたしの心に響いてきた。建物を見て美しいと思うことはあまりないのだが、昔イスタンブールでブルーモスクを見た時の感動をなんとなく思い出した。あのときもやはり、「なんなんだろう、これは」と思ったからだ。寺院であることは分かっていても、その形がわたしの寺院建築のイメージをはるかに越えるほど美しかったということかもしれない。人間の想像力の豊かさに、あらためて驚嘆した。
 「さすがお札になるだけのことはあるなぁ」という下世話な感動も込めながら写真を撮り、しばらく池のほとりを歩いて宝物館の方に入っていった。宝物館の中は薄暗く、大きな仏像や鐘などが展示してあった。しばらく行くと、部屋中に小さな仏像がたくさん飾ってある部屋に出た。その部屋に入って、展示してある仏像を眺めているうちに、わたしの心の中を何かがすっと駆け抜けた感じがした。この感覚は、どこかで味わったことがあると思ったのだ。わたしの心が、仏像に込められたなんらかの力と共振したと言ってもいいかもしれない。「これは天使だ」と、直感的にわたしは思った。展示されていたのは奏楽供養菩薩という菩薩たちの像で、それらの菩薩はみな雲に乗り、手に手に楽器を携えながら空を舞っていた。老いや病、飢えや乾き、さまざまな欲望などに悩まされる人間の肉体から解放されて、ただ人間を越えた超越的存在をたたえながら存在する純粋な霊、それが菩薩であり天使なんだろうと思う。菩薩たちの像をみながら、そのような天的存在に対する仏師たちのあこがれをありありと感じた。そう思ったときに、鳳凰堂自体が地上に極楽浄土をこの世に作り出すするという目的で造営された建物であることも思い出された。天を自由自在に飛び回り、ただ仏を楽しませるためだけに存在している菩薩たちの姿を見ながら、人間が天の国について思いめぐらす想像力は東西を問わず似たようなものなんだなあと思って感慨が深かった。 
 平等院でもうひとつ気に入ったのは、すぐ近くを流れている宇治川だった。平等院へと続く橋を渡りながら、山々の合間から圧倒的な水量で流れだしてくる川を見たときに、わたしは何か霊的なものを感じた。だから、宝物殿に入って1枚の屏風絵に、宇治川を下って仏たちがやってくる場面が描かれているのを見つけたとき、「ああ、やっぱりな」と思った。昔の人たちも、宇治川の流れに何か人間の理解を越えた神秘的なものを感じて、宇治川が山々の合間から流れだすこの場所に極楽浄土を作り出そう思ったのだろう。わたしも、宇治がすっかり気に入った。またいつか行ってみようと思う。

※写真の解説…上の写真は、おなじみの平等院鳳凰堂。下の写真は宇治橋から見た宇治川の流れ。