入門講座(9) 罪と恵み

《今日の福音》マタイ5:43-48
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」というイエスの有名な言葉が今日の福音で読まれました。自分の味方だけに優しくしたり、自分が好きな人のために祈ったりすることは誰にでもできる。だが神の愛を実践し、「神の国」のために働きたいのなら、敵を愛し、自分を傷つける者のために祈りなさいというのです。
 これは本当に難しいことですが、人間は誰しも罪深く、神の恵みによってのみ生かされた存在だということを心の底から自覚するならば可能なのではないかとも思います。わたしたちを攻撃し、傷つける人も、わたしたち自身も不完全な人間なのです。わたしたちは、互いに互いのことをよく知らないままに怒りや嫉妬などの激情に囚われて互いを傷つけあいます。そのような人間の罪深さ、弱さを感じるとき、わたしたちを傷つける人に対しても共感することができるでしょうし、またわたしたちを生かし続けてくださる神様の恵みも深く感じ取ることができるのではないでしょうか。

《罪と恵み》
 キリスト教は、罪を強調する宗教だと言われます。聖書の中では、神の前で正しく生きた人は義人と呼ばれますし、神の御旨に反して生きた人は罪人と呼ばれます。イエスは、すべての人間が神の前に罪人であり、悔い改めが必要だということを説きました。
 その一方で、イエスは人間が神からの恵みによって支えられた存在であることも説いています。人間は、神からの恵みによらなければ救われないというのです。ですからキリスト教は、神の恵みを強調する宗教だとも言えるでしょう。
 罪と恵みとは何なのでしょうか。罪と恵みは、わたしたち人間の中でどのように結び付いているのでしょうか。

1.罪の普遍性
 キリスト教で罪は、何か悪いことをした人に限らず、すべての人、たとえ表面的に正しく生きている人や何も知らない幼児であっても背負っているものだと考えられています。このような人類に共通の、宿命的な罪のことを原罪と呼びます。
(1)原罪の遺伝
 現在でも大切に継承されているカトリック教会の伝統的な教えでは、最初の人間であるアダムが罪を犯したことによって、すべての人類が罪を背負ったと言われています(参照・ローマ人への手紙5章12節以下)。創世記3章の物語に描かれているように、アダムがエバの誘いに乗って、食べてはいけないと神から命じられていた木の実を食べたことで、人類は罪の重荷を背負うことになったというのです。
 この罪が原罪と呼ばれます。原罪は生殖行為によって親から子へ遺伝するもので、なにも悪いことをしていない赤ん坊であっても原罪を背負っていると考えられています。だからカトリックでは、生まれたばかりの赤ん坊にも洗礼を授け、赤ん坊から原罪を取り去るのです。生殖による遺伝というのは、科学的な表現というよりも、人間が生まれながらに罪深さを背負って生まれてくるということの比喩的な表現でしょう。
(2)アダムの罪
 では、そもそもアダムはどんな悪いことをしたというのでしょうか。神が食べてはいけないと命じた木の実を食べたことは、それほどまでに悪いことだったのでしょうか。
 アダムの罪の中心になるのは、木の実を食べたということよりも、むしろ神の命令に背いたということだとわたしは思います。アダムは神の御旨がなんであるかはっきり知っていたにも拘らず、それに背きました。自分の欲望を優先して、神をなおざりにしたのです。神よりも自分を優先するというこの選択が、人間に罪の刻印を押してしまったのではないかとわたしは思います。アダムのこの選択によって、すべての人間が、神よりも自分を大切にすることを選ぶという宿命的な罪を背負ってしまったのです。
(3)人間は自力で救われるか?
 人間はこの罪深さから自力で抜け出すことができるのでしょうか。仏教の一部では、そのようにも考えられているようです。厳しい修業をして煩悩に打ち勝つことで、いつの日か解脱して仏になることができるというのです。キリスト教徒の間でも、そのように考えた人たちがいました。しかし、そのような考え方は、間違った考え方として教会から排斥されてしまいました。なぜなら、もし自力で罪から救われるならば、イエス・キリストによって救われる必要がないからです。わたしたちの信仰の実感としても、罪はどんなに努力してもぬぐいがたく付きまとうもので、自力で罪から逃れることは難しいと感じられるのではないでしょうか。
(4)人間は神の救いの業に協力できるか?
 ならば人間はまったく受動的に救われるだけの存在なのでしょうか。救われるために、人間の方からは何もしなくてもいいのでしょうか。
 マルティン・ルターという人は、人間の意志は完全に罪にまみれた「奴隷意思」(罪の奴隷になった意思)なので、人間の方からは何もできない、ただ信仰によって神により頼むことで救われると主張しました。それに対してカトリック教会は、人間は行動によって神の救いの業に協力することができると主張しています。人間は、神の呼びかけに応答し、なんらかの行為をすることによって罪からの救いに協力できるというのです。
(5)洗礼と原罪
 では、人間は何をしたら原罪から救われるのでしょうか。カトリック教会では、洗礼を受けることによって原罪が完全にぬぐい去られると考えられています。洗礼によってアダムから遺伝した罪だけでなく、それまでに自分自身が犯した罪(自罪)もすべてぬぐい去られるというのがカトリック教会の教えです。ただし、原罪の影響はいつまでも残ると考えられています。原罪の影響として、人間は神に背いて自分中心の生き方をしようとする傾向性を持ち続けるということです。
これに対して、多くのプロテスタント教会は罪への傾向性自体が罪だと考え、洗礼によっても罪がなくなることはないと主張しています。

2.個人的罪と社会的罪
 次に、遺伝によって相続する罪ではなく、わたしたち自身が犯す罪についてお話ししましょう。最近の神学では、わたしたちが犯す罪には個人的な罪と社会的な罪の2種類があると考えられています。
(1)個人的罪
 個人的な罪とは、わたしたちが原罪の影響に引きずられて犯してしまう罪のことです。神の御旨ではなく、自分の思いを優先すること、自分自身をすべての判断の基準にしようとすること、自分を神にしようとすること、それらが個人的な罪だと言えるでしょう。
 罪とは神と人間との信頼関係を破壊することだとも言えます。神の御旨に背くならば、人間はもはや神に合わせる顔がなくなるからです。ちょうどアダムが神から隠れたように、罪に陥っている人はもはや神との信頼関係にとどまることができなくなるのです。隣人や社会に対する罪も、神の御旨に背いて自分中心に振舞うことが根にありますから、やはり神との信頼関係の破壊だと言えるでしょう。
(2)社会的罪
 個人的な罪が社会の中に積み重なると、社会に「罪の構造」が出来上がります。たとえば、非正規雇用によって貧しい人々を安い賃金で働かせ、「ワーキング・プア」と呼ばれるような人々を生み出す日本の経済システムは、それ自体として「罪の構造」だと言えるかもしれません。発展途上国の貧困の上に、先進国の豊かさが築き上げられている現代の世界経済システムも、ある種の「罪の構造」と呼んでいいでしょう。自分たちさえ豊かで楽な生活ができればいいという人間の自分本位な考え方が、貧しい国々の人々を餓死に追い込む罪深い経済システムを築きあげ、それを支えているのです。このようにして構造的に生み出される罪を、社会的な罪と呼びます。わたしたちは、社会の中で経済活動を営み続ける限り、つまり買い物をしたり食事に行ったりしている限り、このような罪から逃れることができないのです。
 ちなみに、国連世界食糧計画の資料によれば、現在世界で1日25,000人が飢餓のために命を落としており、そのうち18,000人は5歳未満の子どもだそうです

3.恵みの普遍性
 ここからは神の恵みの話に入っていきます。罪と同様、恵みもすべての人間に与えられるものだとカール・ラーナーは主張しています。キリスト教徒に限らず、すべての人間に神の恵みが与えられるということです。
(1)神に開かれた存在としての人間
 まず、人間の存在が神に開かれていること、それ自体が恵みだとラーナーは言います。人間は根底において神に対して開かれており、その開かれた部分からいつも神の恵みが人間に流れ込んでいる、だから人間は生きていくことができるんだということでしょう。イメージを使って言えば、人間の心には窓が開いていて、そこから神の恵みが太陽の日差しのようにいつも差し込んでいる、あるいは、人間の心の奥底には泉があって、そこから絶え間なく生命の水がわき出しているというようなことだと思います。ですから、人間は、人間である限り神の恵みから切り離されることがないのです。
 ただ、その恵みに気がついていない、あるいは気がつかなくなるということはありうるでしょう。それが、罪の闇に閉ざされた状態だと思います。恵みが神からのものだと気づいている必要はないと思いますが、その恵みを感じ続けられるかどうかが問題だと思います。わたしたちの心の目が罪に閉ざされていれば、恵みの光を感じることはできないでしょうし、罪が心に積もっていれば、心の底にある泉は埋もれてしまうでしょう。
神の恵みに気づかない限り、人間が心の底から満たされることはないだろうという気がします。なぜなら、人間は神の愛に向って方向づけられた存在だからです。人間は、神の愛の中で安らぐまで、本当に安らぐことができないのです。
(2)神の呼びかけ
 このような人間の神に対する開けのことを、マザー・テレサは次のように表現しています。
 「イエスが『あなたを愛している』というのを聞かずに、たとえ1日たりとも生きながらえることはできません。体が呼吸を必要とするくらいに、わたしたちの魂はその呼びかけを必要としているのです。
 イエスはこころの静けさの中で語りかけながら、あなたたち一人ひとりがその声に耳を傾けるのを待っているのです。」
 人間のこころが神に開かれている、その部分からイエスがいつもわたしたちに呼びかけているということだと思います。イエスの呼びかけは、神の恵みそのものだと言えるでしょう。
(3)恵みと聖霊
 恵みが人間の心を照らしたり、温めたり、生かしたりする力だとすれば、聖霊とどこが違うのかという疑問がわいてきます。ラーナーは、聖霊と恵みを同じものと考えているようです。聖霊が働くところには必ず恵みがあるし、恵みがあるところには必ず聖霊が働いているということです。
(4)いつ恵みが働くのか
 恵みは、人間が自分自身を乗り越えて、意識的にせよ無意識的にせよ神に向かって進んでいく時に働くと考えられます。他人への愛のために自分を犠牲にするとき、神から与えられた使命のために労苦をいとわないとき、そのようなときにわたしたちに聖霊が送られ、恵みが与えられるのです。そのようなことは、キリスト信者でない人にも起こりえます。

4.個人的恩恵と社会的恩恵
 罪に個人的罪と社会的罪があったように、恩恵にも個人的恩恵と社会的恩恵があると考えられます。
(1)個人的恩恵
 個人的恵みとは、人間が神に向かって自分を乗り越えていく時に与えられるもので、生きる力、喜び、感謝、平安、慰めなどのことです。祈りの中で、神から個人に対して直接与えられるものだと言えるでしょう。
(2)社会的恩恵
 個人に与えられた恵みは、世界に向かってあふれ出していきます。困っている人への親切な言葉、貧しい人への奉仕、病んだ人の介護、抑圧された人たちのために社会を変えていく動きなどとして、一言でいえば愛の業として、恵みは人間を通して世界に働きかけていくのです。そのような恵みの力が、社会の中に集まっていくと、そこに「恵みの構造」が生まれます。健康保険や介護保険などの社会保障システム、憲法の人権規定、世界人権宣言、第3世界を支援するさまざまなNGOなどは、そういった「恵みの構造」だと言っていいでしょう。「恵みの構造」は、苦しみ、困っている多くの人々の心に生きる力や喜びを生み出していきます。そのようにして生まれる恵みを、社会的な恵みと呼ぶことができるでしょう。「恵みの構造」にはさまざまな形がありますが、それらの先頭に立つのは、本来教会でなければならないと思います。

5.罪の自覚と恩恵の自覚
 罪と恩恵は、表裏一体と言えるかもしれません。罪の自覚が深まれば深まるほど、神様から与えられる恩恵がどれだけありがたいものかを実感できるからです。暗闇が深ければ深いほど、そこにさす光が明るく感じられるというようなことです。イエス・キリストは、罪の闇に覆われた世界にさした、一筋の恵みの光だったのです。
 イグナチオの『霊操』は、最初の方で自分の罪を徹底的に見つめさせ、次にイエス・キリストとの出会いへと人を導きますが、その流れはこのような罪と恵みの関係を反映したものだろうと思います。自分がどれほど罪深いかを知れば知るほど、イエスによる救いを肌身で感じることができるようになることを、イグナチオは自分の体験から知っていたのでしょう。

《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・ラーナー、カール、「霊の体験」、神学ダイジェスト55号、1983年。
・Haight, Roger, “Sin and Grace”, Systematic Theology, Minneapolis: Fortress Press, 1991.