入門講座(10) キリストの教会①〜教会の歴史〜

《今日の福音》マタイ5:43-48
 「神の国」についてお話しした時に取り上げた聖書の箇所です。神様は善人にも、悪人にも同じように太陽を昇らせるほど寛大で、慈悲深い方だということが語られています。神様の目から見れば、だれでも同じように大切な子どもであって、よい子どもも悪い子どもも神様には同じようにかわいいということだろうと思います。
 わたしたちキリスト信者は、このような神様の愛を地上で人々に伝えていく使命を負っています。これは大変な使命です。空間的に有限で、時間にも制約され、肉体の弱さも背負った人間が、神様の無限で永遠で完全な愛を人々に伝えなければならないのです。完全になりなさい、というイエスの言葉は、このような使命の重大さを示す言葉だろうと思います。
 実行しようと思ったら気が重くなりますが、一番いいのはたぶん神様に自分のすべてを委ね、神様に福音宣教をしていただくことだろうと思います。わたしたちができることは限られていますが、神様は有限なわたしたちを使って無限の愛を地上に実現することができる方です。教会が、わたしたち一人ひとりが、そのための道具になっていくことができるよう願いたいと思います。

《教会の歴史》
 20世紀の初頭にある神学者が「イエスは『神の国』を予告したのに、来たのは教会だった」と言って物議をかもしました。イエスは「神の国」の到来を予告しただけで教会なんか建てるつもりはなかった、それなのに教会がわがもの顔でイエスの教えを説いているのはどういうことかという問題提起です。確かにそう言われてみれば、イエス自身は福音書の中でほとんど教会に言及していませんし、むしろ「世の終りが近い」と繰り返し言っています。世の終わりが近いなら、教会を作る必要はありませんから、やっぱりイエスは教会を建てる意思がなかったのかなとも思えます。
 実際のところ、どうなのでしょうか。イエスには教会を建てるつもりがあったのかということをまず考えてみたいと思います。残りの時間で、教会が歴史の中でどのように成長していったのかということを概観したいと思います。

1.イエスと教会
(1)教会についての言及
 まず、イエスが教会について言及している箇所が少ないという点について考えてみたいと思います。実際のところイエスが教会(ギリシア語原文でエクレジア=民の集い)という言葉を使ってはっきりと教会に言及しているのは福音書の中にたった1箇所だけです。イエスは次のように言いました。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:17-19)

 この箇所はカトリック教会によって、イエスが教会を設立したこと、及び教会におけるペトロの首位権とペトロの後継者であるローマ教皇の首位権をイエス自身が制定したことの証拠とされてきました。イエスが教会という言葉を使ったのは、福音書の中でこの場面でだけです。この箇所と、それに基づくカトリック教会の主張については、否定する意見と肯定する意見があります。
 否定する人たちは次のように主張します。
①この箇所は、初代教会がペトロの権威を根拠づけるために創作し、聖書に挿入したものである。
②当時、教会という言葉はまだなかった。だから、イエスが教会という言葉を使ったはずがない。
③教会を建てるという重大な記述なのに、マルコやルカの福音書には書かれていない。
④教会という言葉が使われるのが、よりによってこの1箇所だけというのは不自然。
 それに対して、肯定する人たちは次のように主張します。
①ペトロの権威は初代教会ですでに確立していたので、あえて聖書に手を加える必要はなかったはず。
②ペトロを特別扱いしている箇所は、他にもある(ヨハネ21等)。
③仮に教会という言葉がなかったとしても、イエスの周りに弟子の集団があり、イエスが弟子を養成し、福音宣教のために派遣していたことは事実。
④エクレジアという言葉は使っていないが、「小さき群れ」など民の集いを意味する言葉は使われている。
 わたし自身は、当然ですが肯定の立場です。もしこの言葉が初代教会の創作だったとしても、イエスの周りにすでに教会の原型となる弟子や婦人たちの集団があったことは間違いありません。12使徒を選んで福音宣教させたのはイエスですから、そのような集団が生まれることはイエスの意志だったと言えるでしょう。それに、ペトロが特別イエスから愛されていたことは、聖書のいろいろな箇所からも確認できます。その意味で、イエスは教会を設立し、その中でペトロに特別な役割を与えたということができると思います。
(2)「世の終わり」との関係
 イエスはたびたび「世の終わり」が近いことをほのめかしています。同じマタイ16章の最後でイエスは、「ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」とさえ言っています。この言葉を読むと、イエスは何十年かのうちに「世の終わり」が来て「神の国」が実現すると考えていたように思えます。そうだとすると、イエスは教会を設立したとしても、その教会が長続きすることまでは意図していなかったということになります。この点について、どう考えたらいいのでしょうか。
 イエスが「世の終わり」というとき、わたしは必ずしもイエスが現実の世の終りが近いと言っているのではないと思います。むしろ、「世の終わり」がいつ来てもいいように、今この瞬間に回心しなさいと呼びかけているのだろうと思います。イエスは、わたしたちが今、この瞬間にも神を選び取り、生活を根底から変えることを願っているのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」(マタイ24:42)という言葉に、そのようなイエスの真意が示されていると思います。イエスは、わたしたちがいつも神の前で目覚めたものであることを望んでいるのです。
(3)イエスによる教会の設立
 以上からわたしは、教会がイエスによって設立されたと言っていいと思います。もちろんイエスは、現代の教皇庁の複雑な組織や、世界中に広がる多様な教会の姿を意図してはいなかったでしょう。しかし、イエスが選んだ弟子たちに始まって、どんどん輪を広げていった教会共同体にイエスの霊である聖霊が働き、今のような形の教会ができあがったとすれば、その意味で現代の教会もイエスの設立によるものだと言うことができると思います。

2.教会の歴史
 では、イエスによって設立された教会は、歴史の中でどのように発展していったのでしょうか。6つの時期に分けて概観したいと思います。
(1)初代教会
 教会は最初、ユダヤ教の分派として活動を始めました。ユダヤ教徒の中で、イエスこそユダヤ民族の救い主・メシアだと考えた人々が教会と呼ばれる集まりを始めたのです。ですが、そのような動きに対してユダヤ教側から激しい弾圧が加えられました。使徒行伝に出てくるステファノの殉教に見られるような迫害です。イエスの弟子たちは、仕方なく小アジアギリシア、ローマに散らばり、それらの地でイエスの教えを伝えていきました。パウロがアンティオキアで宣教していたころに、「キリスト者」という呼び名が確立したようです。
 66年に発生したローマ帝国ユダヤ人の間の戦争であるユダヤ戦争のとき、キリスト教とたちはユダヤ教徒と一緒に戦うことを拒否しました。その結果、キリスト教ユダヤ教は完全に分離することになりました。
(2)古代教会
 教会は、ユダヤ教だけでなく、ローマ帝国からも迫害を受けました。1世紀のネロによる迫害では、ペトロやパウロが殉教したと考えられています。しかし、迫害にも負けずキリスト教ローマ帝国に浸透していきました。その結果、313年コンスタンティヌス帝によってキリスト教を信じる自由が帝国民に対して与えられました。392年、キリスト教がテオドシウス帝によってローマの国教に定められると、今度はキリスト教が他の異教を迫害する側に回っていきます。ローマの神々を讃えるオリンピックさえ、テオドシウス帝によって廃止されてしまいました(今行われているオリンピックは19世紀に復興されたものです)。
 教会をめぐる状況の劇的な変化の中で、教会は帝国の行政機関のようになっていき、教皇、司教、司祭、助祭という役割分担は、階級制度として運用されるようになりました。ペトロの墓の上に司教の椅子を置き、ペトロの後継者をもって任じるローマ司教は、自らが聖職者の階級の頂点としての教皇であることを主張し、全教会によって容認されました。
 これまでの講座で紹介した神やイエス・キリストについての教義が確立していったのも、この時期です。父・子・聖霊の三位は一体であり、父と子は同一本質であるという教義は、325年のニケア公会議で、子の位格において神性と人性が混じり合うことも、分離することもなく結合しているという「位格的結合」の教義は451年のカルケドン公会議で制定されました。
(3)中世の教会
 ローマ帝国滅亡後、教皇を頂点とした中世の教会は、領土や領民をもった封建君主のようになっていきます。教皇の権威は次第に拡大し、11世紀には教皇が皇帝をひれ伏させたことで知られる「カノッサ事件」も起こりました。13世紀には、アッシジのフランシスコの映画『ブラザーサン・シスタームーン』にも出てきた教皇インノケンテイィウス3世が登場し、教皇の権威は頂点に達します。しかし、14世紀になるとフランス王の力が増大し、教皇庁はローマからフランスのアヴィニヨンに移動させられました。その後のごたごたの中で、ローマ、アヴィニヨン、ピサの3箇所にそれぞれ教皇がいた時代もあります。
 ローマ・カトリック東方正教会が分裂したのも11世紀です。教皇の首位権、典礼の違い、聖霊がどこから発出したのか、聖画像を教会においていいのかなど多くの問題が重なって分裂に至ったと言われています。東西の教会が相互に破門し合って分裂したわけですが、この破門自体は1965年に双方から解除されています。11世紀以降、エルサレムに向かってたびたび十字軍が送られたという事実も忘れてはいけないでしょう。
(4)宗教改革
 アヴィニヨンからローマに帰還すると、教皇の世俗的権力は再び増大していきます。ルネサンス期のイタリアの繁栄とともに、教皇は再び強大な力を持っていったのです。帰還した教皇のために、バチカンにはサン・ピエトロ大聖堂が建てられました。残念ながらこの時期、教皇や聖職者たちの生活はかなり乱れていたようです。教皇が妾を囲ったり、司教が自分の子供に聖職を世襲させたりするようなことまであったと言われています。
 サン・ピエトロ大聖堂建設の資金を集めるため、教会が贖宥状(それを買って、教会にお金を払うことが罪の償いの代わりになるとされた書状)を売り出したことをきっかけにして、マルティン・ルターカトリック教会を厳しく批判する文書を発表しました。いわゆる宗教改革の始まりです。アウグスティノ会の修道士だったルターは最終的にローマから破門されましたが、ルターの周りにルター派と呼ばれる大きな勢力が誕生しました。この勢力が、プロテスタントと呼ばれる団体を形成していきます。
 宗教改革と並行して、カトリック教会の中からも教会の刷新運動が起こりました。その先頭に立ったのがロヨラのイグナチオであり、彼が創立したイエズス会でした。イエズス会は、ヨーロッパでの教会の内部刷新のほか、世界宣教を行うによって教会の地盤を固めていきました。16世紀のトリエント公会議においては、宗教改革者たちに対するカトリック教会の態度が明確に示され、近代にいたるまでの教会の土台が据えられました。
(5)近代の教会
 近代において啓蒙主義自由主義、民主主義などが台頭し、それらの信奉者から教会の権威が批判されるようになってくると、教会はそれらの考え方を敵視し、拒絶することで教会を守るという態度を取りました。教会は、社会の動きに対して自分を閉ざしてしまったのです。この時期は、教会がフランス革命やイタリアの独立戦争などによって財産や領土を失っていった時期とも重なっています。このような動きの中で、19世紀には、信仰や道徳の問題について教皇が決して間違わないことを宣言した第一バチカン公会議が行われました。
(6)現代の教会
 現代の教会の出発点になるのは、1960年代に行われた第二バチカン公会議です。この公会議によって教会がどのように変わっていったかについては、別の回に詳しくお話ししたいと思います。
(7)まとめ
 このような歴史を見てくると、教会というのは一体なんなんだろうという疑問が湧いてきます。教会は歴史の中でたくさんの間違いを犯してきたからです。初代の教皇と言われるペトロと同じように、教会は人間的な弱さを抱えた存在としてたくさんの間違いを繰り返し、そのつど回心しながら今日まで歩んできたと考えてはどうでしょうか。もしそうでなければ、教会は歴史の途中で消えてしまったはずです。人間的な弱さを抱え、多くの間違いを犯しつつも、なんとかイエスの教えに従って「神の国」に向かって歩いていきたいという希望をもった人々の集まり、それが教会だと言えるのかもしれません。
 マザー・テレサは教会に起こってくるさまざまな出来事について、次のように語っています。

 「今日、教会の表面で起こっていることは、やがては過ぎ去ることです。キリストにとって教会は、昨日も今日もそして明日も同じです。恐れと不信、挫折と不忠実、そのような時を使徒たちも体験なさったのです。でも、キリストはお叱りにならず、ただ『信仰の薄い者よ、なぜ恐れたのか』とおっしゃっただけです。わたしたちも、キリストが愛されたように愛することができるならと思います。」

《参考文献》
・岩島忠彦、『キリストの教会を問う』、中央出版社、1987年。
・『マザー・テレサのことば』、女子パウロ会、1976年。