余談(5) いまどきの若い者は・・・。

 前回の「余談」を書いてから、はたして現代の若者は病んでいるのかということについて色々な人に意見を聞いたり、わたし自身何人かの若者たちと直接話したりした。その上で、もう少し考えてみたい。
 幾人かの大人たちから聞かれた声は「今どきの若い者は、ケータイやインターネットの影響で心を蝕まれてしまっているから、わたしたちには理解できない。会話も成立しない。このままでは日本の将来が思いやられる」というようなものだった。このような意見にはたいてい、その証拠に今時の若者は文章力がない、本を読まない、人とコミュニケーションするのが下手だ、人間の生命の大切さがわかっていない、などというおまけがついてくる。果たして本当に若者たちはケータイやインターネットなどによって心を蝕まれ、病んでいるのだろうか?
 こう考えたらどうだろう。昔から「いまどきの若い者はけしからん」というのは、年寄りの口癖だと言われている。本当かどうか知らないが、古代メソポタミアの文章を解読していたら、そこにも同じ嘆きが書かれていたということだ。若者はいつの時代でも、それぞれの時代の最先端の技術や音楽、コミュニケーション手段などを素早く柔軟に取り入れ、自分の生活の一部にしていく。それに対して、ある程度年齢が上がった人たちはもはや新しい時代の流れに適応できず、過去の生活様式固執しようとする。そのため、当然若者と年寄りの間には隔たりが生まれ、それが年寄りの「いまどきの若い者は…」という嘆きを生むということだろう。今起こっている若者に対する非難も、実はそれと同じことなのではないだろうか。
 今から何十年か前にテレビをめぐって行われていた議論が、今ケータイやインターネットに移っただけだなのではないかという気もする。かつてテレビが登場したばかりのとき、テレビによって若者は本を読まなくなり、人とのコミュニケーションが下手になり、文章力が落ち、自分の世界に閉じこもっていくという議論が真剣に行われていた。今、ケータイやインターネットについて同じことが起こっているだけだとは考えられないだろうか。
 精神科の敷居が低くなり、さまざまな心の問題に病名がつくようになったことが、事態をやや複雑にしていると思う。大人たちは、「いまどきの若い者はけしからん」と言う代わりに、「いまどきの若い者は病んでいる」ということができるようになったからだ。大人は、若者たちと自分たちの生き方の違いに、「うつ病」、「人格障害」、「不安障害」などという病名をつけることができるようになった。そのような病気が存在することは事実だし、認めなければならないが、どうも話を聞いていると病名が自分たちと違った若者を差別し、社会から排除するための手段として使われている場合が多いような気がしてならない。
 フランスの哲学者M.フーコーは、「狂気」という概念が反社会的な行動をとる人間を差別し、病院に閉じ込めるための概念として生まれたと指摘したが、現代では「心の病」という概念が「狂気」と同じような役割を果たしているような気がする。大人たちと違った生き方をする若者たちが、「心を病んでいる」と言われ、社会から拒絶されて、片隅へと追いやられているような気がする。
 その証拠に、わたしが教会で出会う若者の中には、相互理解が不可能なほど心を病んでいるような若者はいない。それだけでなく、単に普通と違う感じ方をし、普通と違う生き方をしているというだけの人たちが、病名で呼ばれ、社会的に差別されていると感じることが多い。大人たちの無理解が彼らを病気にしてしまったのではないかとさえ思えることもある。
 そのような現実を無視して、大人が自分たちと違った生き方をする若者たちを「病んでいる」と呼び続け、差別し続けるならば、はたして本当の意味で病んでいるのは若者なのか、それとも大人なのか。近頃もはや若者というよりは大人の方に考えかたがだいぶ近づいてきたわたしとしては、自分自身にそう問い続けざるをえない。
※なお、本稿で「大人」、「若者」という呼び方は便宜的に使っている。年齢的に若くてもこの稿で書いた「大人」と同じ考え方をする人もいるだろうし、高齢であっても「若者」と同じ考え方をする人はたくさんいるだろう。