フォト・エッセイ(17) 大和古寺巡礼


 ふと思い立って、奈良に行ってきた。
 昨日の天気予報では、今日は曇り時々雨という話だった。だから山は無理だなと思ってどこか探しいてた時に、奈良という場所が浮上してきた。何時間くらいで行けるのかなと思ってためしに調べてみたら、なんと最短なら1時間10分で到着するということだった。「大和路快速」という電車があって、乗り継ぎ次第だが最短でそのくらいの時間で行けてしまうのだ。この事実に気づいた瞬間、わたしの心はほとんど決まった。東京から鎌倉に行くのと同じ感覚で奈良に行けてしまうならば、行かないほうがどうかしている。
 まっさきに向かったのは、東大寺の大仏殿だ。高校の修学旅行で行って以来だから、実に20年ぶりで大仏と再会することができた。思っていたよりちょっと小さく感じたのは、あれから色々なところで巨大な石像や建造物を見てきたからかもしれない。東大寺から春日大社にまわり、それから奈良国立博物館で今やっている「法隆寺金堂展」を見た。そのあと興福寺に行き、帰り道にJR法隆寺駅で降りて法隆寺を参観してきた。降ると言われていた雨は結果として一滴も降らず、真夏日の奈良をひたすらお寺と仏像を見て回った1日だった。
 たくさんの仏像をみながら思ったのは、それらの仏像がまさに人々の宗教心の結晶だということだった。あるものには永遠に変わらないものへの憧れが、あるものには不老不死への憧れが、あるものには知恵への憧れが、またあるものには力強さへの憧れが、あふれんばかりに込められているのを感じた。戦乱や飢饉に脅かされた変転極まりない世の中で、人々は何があっても変わらないものに憧れ、その憧れを仏像に託したのだろう。病に対してまったく無力だった古代の人々は、病からも老いからも解放された存在に憧れ、その憧れを仏像に託したのだろう。人間の愚かさにうんざりした人々は、人生の指針となる知恵に憧れ、その憧れを仏像に託したのだろう。正しいものや善いものが簡単に踏みにじられてしまうのを目の当たりにした人々は、力強いものに憧れ、その憧れを仏像に託したのだろう。人間の限界を越えたなにものかを崇め敬う心を宗教心と呼ぶなら、それらの仏像は人々の宗教心が木に刻まれたものに他ならないと思う。
 仏像の穏やかなほほえみ、慈愛深い眼差し、現世を超越したような落ち着き、愁いの中にも真実を湛えた瞳、力強い肢体、そういったものを見ているうちに、わたしの心はしだいに癒されていった。キリスト教徒であるわたしには、それらの仏像が、あるものは神の愛を、あるものは神の永遠を、あるものは神の知恵を、またあるものは神の力強さを、はっきりと現わしているように感じられた。一体一体の仏像と向かい合い対話しているうちに、それまで頭の中で理解していただけだった「仏教の中にも救いがある」という考えが、すとんと腑に落ちたような気がした。真剣に人間の弱さや罪深さと向かい合う中で、天に向かって発せられた叫びのような宗教は、必ずイエス・キリストの救いと結ばれているはずだ。イエス・キリストは、仏像を通して確かに人間の叫びに答えている。
 それと同時に、キリスト教徒は仏教から何か学ぶものがあるのではないかとも感じた。人々の素朴な憧れや叫びを一つ一つ丁寧に掬いあげながら何千年にもわたって発展した宗教のなかには、必ず何か学ぶべきものがあるはずだ。少なくとも、歴史の中で日本人が何に憧れ、どんな救いを求めてきたのかを、仏教はわたしたちに教えてくれるだろうと思う。
 今回は暑くて途中で頭がボーっとしてしまい、あまり祈りに入っていくことができなかったのが残念だ。今度は、もう少し涼しい季節に古墳群などを見て歩きたいと思う。




※写真の解説…1枚目は東大寺の大仏殿。2枚目は興福寺五重塔と東金堂。3枚目は法隆寺五重塔と講堂。