バイブル・エッセイ(13) 柔和で謙遜


 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。
 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)

 「わたしは柔和で謙遜な者だ」とイエスは言います。この言葉を聞いて、「おやっ」と思う人はいないでしょうか。本当に謙遜な人が、自分のことを謙遜だというだろうかという疑問が湧き上がってきてもおかしくありません。「わたしは謙遜なことでは誰にも負けない」なんていう人は、言っていることとやっていることが矛盾していますからね。
 イエスが自分の謙遜さを自慢するためにこう言ったのでないとすれば、なぜあえて「柔和」と「謙遜」という言葉を使って自分を表現したのでしょうか。たぶんイエスは、弟子たちに、わたしと同じように柔和で謙遜になれば、重荷から解放されて安らぎを得られると言いたかったのではないかと思います。イエスは弟子たちに自分に倣って生きることで幸せになってほしかった、そこであえて自分がどのような人間であるかを「柔和」と「謙遜」という言葉で定義したと考えられます。
 では、「柔和」で「謙遜」とはどういうことでしょうか。それは、言いかえれば、「神様の前で頑なな心を捨て、神様の声に耳を傾けられる」ということだろうと思います。
 たとえば、教会にいると自分で自分のことを責めて苦しんでいる人にたくさん出会います。彼らは「自分はもっとこうあるべきなのに、実際にはそれができていない」、「自分は誰からも相手にされない人間だ」、「こんなはずではなかったのに」などなどと言って、だから自分はダメな人間だ、希望がないと結論づけてしまいます。ですが、わたしから見るとどの人も本当に魅力的で、それぞれ豊かな賜物を与えられたすばらしい人たちです。彼らは、自分で自分がダメな人間だと決めつけることで、自分で自分を苦しめているように見えます。自分で自分をダメだと決めつけるのは心の頑なさと言っていいでしょう。もしどれだけ周りの人が彼らを心配しているか、どれだけ彼らのことを大切に思っているかに気づけば、自ずから神様への感謝が生まれ、心は喜びにあふれて軽くなるだろうと思います。
 自分で自分を裁く頑なな心を捨てて、神様に耳を傾けるならば、神様がわたしたちの身の回りのものすべてを通して、またわたしたち自身の心の深みから「あなたはわたしにとってとても大切です」と言ってくださっていることに気づけるでしょう。このような意味で「柔和」で「謙遜」になるならば、わたしたちは自分で自分に負わせた重荷から解放され、安らぎを得られるだろうと思います。
 ほんとうの自分は、自分で思っているほど悪くないのです。自分は自分のことすら十分に知らないということを自覚して、いつも神様に謙虚に耳を傾ける姿勢を持つならば、わたしたちは自分に絶望することなんかできなくなると思います。このことは、わたしたちが嫌いな誰かや、わたしたちを取り巻く状況にも当てはまるでしょう。もし自分は自分のことすら十分に知らない、まして他人のことや世界のことなどはほとんど知らないに等しいという謙虚な心で周りの人や社会と向かい合い、いつも神様に謙虚に耳を傾けていくならば、わたしたちは周りの人や社会をありのままに受け入れることができるのではないでしょうか。そうなれば、もう疲れたり、重荷を感じたりすることもないだろうと思います。
 イエス・キリストは、きっとそういう風にして自分とも、他人とも、社会ともうまく付き合いながら、人生を軽快に生きた人だったのでしょう。わたしたちも、イエス・キリストのように「柔和」で「謙遜」になれる恵みを願いたいと思います。
※写真の解説…北海道・富良野のラベンダー畑。