入門講座(11) キリストの教会②〜教会の唯一絶対性〜

《今日の福音》マタイ8:23-27
 今日わたしたちは、教会が伝えるイエスの教えこそが唯一完全な真理であり救いだという主張、教会の唯一絶対性の主張について学びますが、ちょうどいい箇所が福音で読まれました。イエスが湖を叱って波を静めるという話です。
 古来、この話の中に出てくる舟は教会のことだと考えられてきました。教会は、迫害の荒波にもまれて沈みそうになるけれども、イエスがいる限りなにも心配することはないと人々は考えたのです。今日の教会は司祭召命の不足、高齢化などたくさんの困難に直面していますが、このようなときだからこそ、どのような荒波に揉まれても神様を信頼し、決してあわてたり騒いだりすることのないイエス・キリストの落ち着きを見習いたいものです。信頼して荒波を乗り越えていくならば、神様はきっといつの日か荒波を静めてくださるでしょう。もし仮に舟が沈んでしまったとしても、それが神様の御旨であれば何も恐れることがないと思います。神様は、わたしたちをすぐに「神の国」に迎え入れてくださるでしょうから。

《教会の唯一絶対性》
 カトリック教会は現在に至るまで、カトリック教会の伝えるイエスの教えこそが、神の救いに至る唯一完全な道だと主張しています。このことを難しい言葉では教会の唯一絶対性の主張と言います。こんなことを言うと日本の社会では嫌われてしまうに決まっていますが、キリスト教信者にとってはとても大切な教えです。この教えについてわたしたちはどう理解し、人にどう説明したらいいのでしょうか。

1.教会だけが唯一の救いの道なのか?
(1)「教会の外に救いなし」
 「教会の外に救いなし」という言葉があります。教会の外の世界は悪にまみれた世界であって、教会の中にとどまるときにだけ救われることができるという意味で使われてきた言葉です。もともとこの言葉は、教会を分裂させることを戒めるためにキリスト教徒に対して使われた言葉でしたが、次第に教会の外にいる人たちに対しても使われるようになっていったと言われています。
 このような教会理解の象徴的な表現が、「ノアの方舟」としての教会であり、「ペトロの舟」(ルカ5:3,マタイ8:23-27)としての教会です。この教会理解に立つと、舟の外は悪と混沌に満ちた世界で、人間は教会という舟に乗りこむことによってのみ救われるということになります。
(2)キリストの唯一絶対性
 「教会の外に救いなし」という言葉は、ある意味でカトリック教会において現代でも大切に守られている考え方です。詳しくは次回もう一度御説明しますが、その根拠はイエス・キリストの唯一絶対性にあります。
 イエス・キリストについて学んだ回の復習になりますが、キリスト教では、神がどのような方であるかはイエス・キリストによってのみ全人類に完全に示されたと考えられています。その意味で、人類はイエス・キリストを通してしか神に到達することができない、すなわち救われることがないということになります。また、十字架上で起こった神の愛と人間の愛の完全な出会いも、歴史の中でたった一度だけ起こったことだと考えられています。その意味でも、人類はイエス・キリストにおいてしか神との完全な交わりに入ることができない、すなわち救われることがないということになります。キリスト教において、すべての救いはイエス・キリストただ1人に由来するのです。この信仰は、イエス・キリスト以外に救いはないという信仰を当然含んでいます。これが、イエス・キリストの唯一絶対性ということです。
(3)教会の唯一絶対性
 教会の唯一絶対性は、このイエス・キリストの唯一絶対性に由来しています。イエスの死後、教会はイエス・キリストの目に見える身体として福音宣教の使命を担いました。教会は、もはや触れることも見ることもできなくなったイエス・キリストの身体に代わって、この地上に神の愛を実現し、宣べ伝えるための道具になったのです。イエスが生前に建てられた教会、イエス・キリストを信じる人々の集いはただ一つだけでしたから、イエス・キリストの教えはその教会だけに正しく伝えられていると考えられます。
 イエス・キリストの教えが救いに至る唯一の道であり、その教えを正しく伝えているのが教会だけだとすれば、当然救いに至る唯一完全な道は教会だけだということになります。その意味で、カトリック教会は教会の伝えるイエスの教えが唯一絶対だ、と考えるのです。
(4)諸宗教に救いはないのか?
 では、教会の外にいる人たちは救われないのでしょうか。仏教やイスラム教を信じている人たちは、神との完全な出会い、神との完全な交わりとしての救いから排除されるのでしょうか。
 このことについては、夏休み明けにゆっくりお話ししたいと思いますが、結論だけ先に言ってしまえば彼らも救われると思います。ただしその救いは、キリスト教徒であるわたしたちの目から見たときには、イエス・キリストによって全人類にもたらされた救いなのです。救いに至る道はたくさんあるが、最後はイエス・キリストを通らなければ誰も救われることがない、と表現したらいいかもしれません。完全な意味での救いはイエス・キリストにしかないが、諸宗教もイエス・キリストにつながっている限りでは救いに至る道だということです。

2.カトリック教会だけが教会なのか?
 救いに至る唯一の道が教会だとして、ではその教会はカトリック教会に限られるのでしょうか。結論から言えば、カトリック教会は、完全な意味でイエス・キリストに由来し、イエス・キリストの教えを正しく守っている教会はカトリック教会だけだと考えています。なぜなら、カトリック教会だけが使徒の時代から継承された司祭職を守り、初代教会のリーダーであったペトロの後継者としての教皇を頂点とした一つの集団を維持しているからです。司祭だけがすべての秘跡の頂点としての聖餐式を執り行うことができますから、その意味でも司祭職というのはカトリック教会にとって決定的に重要です。
では、イエス・キリストを信じる他の教会や団体は、カトリック教会にとってどのような存在なのでしょうか。第二バチカン公会議の公文書「エキュメニズムに関する教令」に従って見ていきたいと思います。
(1)東方教会
 古代における教義論争や、中世における東西教会の相互破門によってカトリック教会から離れていったけれども、使徒継承の司祭職と聖餐式を固く守っている東方の諸教会を、カトリック教会は「姉妹教会」と呼んでいます。ただし、昨年発表された教理省の文章によれば、東方の諸教会も教皇との交わりという教会の本質的要素を欠いているという点で不完全な教会だということになります。
 前回もお話ししましたが、11世紀に行われた東西教会の相互破門は、1965年に解除されています。今後の対話の進展が期待されるところです。東方教会の信徒には、カトリック教会で聖体拝領することが認められています。
(2)西方における別れた諸教会と諸教団
 いわゆるプロテスタントの諸教派のことを、カトリック教会は「別れていった兄弟たち」と呼んでいます。プロテスタントカトリックは、聖書を大切にするという点で共通していますから、聖書が彼らとの対話の土台になります。
 カトリック教会から見た場合、プロテスタントには使徒継承の司祭職がないため、有効な聖餐式も存在しません。それゆえ、プロテスタントの諸教派は、「適切な意味で教会ではない」と言われています。
 主に秘跡をめぐってこのような違いがみられますが、近年では教義上の歩み寄りもみられます。1999年にはルター派世界連盟カトリック教会の間で、人間は神の恵みによってのみ救われることを確認した「義認の教義についての共同宣言」が出されましたし、2006年にはこの宣言にメソジスト派も参加しています。
(3)聖公会
 イギリス国教会を起源とする聖公会は、他のプロテスタント教会と違って教義上の理由ではなく、政治的な理由からカトリックと別れたため、典礼や教義、制度においてカトリックと多くの共通点があります。具体的な例としては、聖公会もマリア崇敬や司教制度などを持っています。2004年には、カトリック聖公会の間でマリア崇敬についての共同宣言が出され、共同礼拝が行われました。但し、聖公会信徒がカトリック教会で聖体拝領することはまだ認められていません。
(4)エキュメニズム
 このような相互の違いを乗り越えて、イエス・キリストのもとに教会を一つに結びつけようとする運動をエキュメニズムと言います。同じイエス・キリストを信じる者どうしがいがみ合い、争いあっているという事実は、誰にとっても大きなつまずきになりますし、とても不幸なことです。相互の対話を進め、理解を深めることで、違いを乗り越え、互いを受け入れあっていくことができればいいのですが。

3.教皇は間違わないのか?
 最後に、ある条件下で教皇は絶対に間違わないという教え、すなわち教皇の不可謬性についてお話したいと思います。唯一絶対を標榜するカトリック教会にあって、教皇には不可謬の特別教導職を行使することが認められているのです。
(1)不可謬であるための条件
 教皇の不可謬性は、次のように定義されます。教皇が、①公的人物として、②最高の牧者の立場から、③信仰と道徳について宣言するとき、④その宣言は不可謬であり、全教会を拘束する。
 ちなみに、この条件をすべて満たす宣言は、これまでに2回だけ出されたと言われています。1854年の聖母の無原罪の宿りについての教義宣言と、1950年の聖母の被昇天についての教義宣言です。その他の教皇文書については、不可謬であるかのような尊敬を持って扱うべきであるとされています。教皇の不可謬の宣言は、その教えが教会全体で大切に守られているか、歴史の中に確固とした根拠を持っているかなどを十分に考慮した上でなされますから、教皇が勝手に何かを教えとして決められるということではありません。
(2)なぜ不可謬なのか?
 なぜ教皇は、そのような条件下で誤ることがないと言えるのでしょうか。その根拠は、教会の不可謬性にあります。イエス・キリストの教えを正しく受け継ぎ、イエス・キリストの霊によって導かれた教会は、その限りで決して誤ることがないはずだというのが、すべての土台です。
 この土台の上に、まず信者の総体(個人ではなく)は誤ることがないということが言えます。次に、司教団も教皇との交わりの中で特定の教義を不可謬の教義として宣言することができます。このような不可謬性の最も特殊な事例が、教皇の不可謬性です。イエスが初代教会のリーダとして選んだペトロの後継者である教皇聖霊が働くならば、教皇は誤りえないはずだという信頼の表現が、教皇の不可謬性だと言えるでしょう。

《参考文献》
・岩島忠彦、『キリストの教会を問う』、中央出版社、1987年。
南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。