バイブル・エッセイ(14) 刈り入れ


エスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」(マタイ9:35-38)
 
  人々が病気で苦しみ、世話をしてくれる人もないままに弱り果て、打ちひしがれているのを見て、イエスは深い憐れみを感じました。きっとイエスは、今の日本社会を見て同じことを思っているのではないかと思います。
 現代の日本社会では、多くの人々が地上のことで頭を悩ませ、苦しんでいます。どうしたら自分は社会から認められるのか、どうしたら才能を開花できるのか、どうしたら幸せな家族を作れるのかなど、自分がこの世界でどう生きたらいいのかということだけを考えているのです。多くの人々は、その中でつまづき、道を見失って苦しんでいます。この地上ですべての人が思うままに自己を実現するということはありえないでしょうから、これはある意味で当然のことです。
 「刈り入れ」の比喩を使うならば、現代人は地上の世界に根を下ろし、しがみついている麦のようなものかもしれません。豊かに実っていながら、地上にしがみついてる麦が、この世界には見渡す限りにに育っています。イエスが弟子たちに求めているのは、その麦を刈り取って、「神の国」へと運び入れることなのでしょう。そのための働き手を、イエスは探しているのです。
 では、どうしたらわたしたちはイエスの収穫を手伝うことができるのでしょうか。わたしたち一人ひとりが収穫のための働き手となっていくためにはどうしたらいいのでしょうか。そのためには、まずわたしたち自身が地上のことだけを考えた人間的な思い煩いから解放され、「神の国」を目指して生きている必要があると思います。わたしたちが地上のことに思い惑わされず、ただ「神の国」の幸せの中に生きているならば、わたしたちと接した人たちはこの世界だけが人間の生きる世界ではないことに気づくでしょう。移ろいやすく不確かな地上の大地を越えた永遠の大地があることに気づくならば、人々は地上の大地にしがみつくのをやめ、刈り取られて「神の国」の永遠の大地へと運ばれていくのではないかと思います。
 まずわたしたち自身がイエスによって刈り取っていただく必要があるでしょう。そのあとで、わたしたちは刈り取りのための働き手になることができるのだろうと思います。苦しみの多い地上だけがすべてではない、わたしたちには「神の国」があるのだということを、一人でも多くの人に伝えることができるよう神様に祈りたいと思います。
※写真の解説…北海道、富良野地方の小麦畑にて。