フォト・エッセイ(19) わらべ地蔵


 今週のお休みは京都を散策してきた。先週、奈良で仏像の美しさに魅了されてしまい、これまで自分は日本人として大切な何かを見落としてきたのではないかと反省したからだ。
 お寺の境内を歩いているときに、木々のあいだに置かれた石の像を見つけた。小さな石の像だったので、初めはなんだろうと思ったのだが、近づいてそれが笑っている小さなお地蔵さんだと分かったときには全身の力が抜けた。まったく無警戒に、無邪気な笑みを浮かべながら祈っている子どものようなその姿を見た瞬間、わたし自身の中にあった小さな緊張感や鬱々とした感情がすっと消えていったように感じた。しばらく見つめているうちに、こちらまでつられて笑ってしまいそうになった。
 先週奈良で見た、どちらかというと無表情さの中に叡智や慈愛などを湛えた風情の仏様たちと違って、この地蔵が感情をとても正直に表しているのに驚いた。まるで、この地蔵を彫った人の善良さや正直さがそのまま石に刻み込まれたようだった。あるいは、もしかすると彼の中にあるそのようなものへの憧れが刻み込まれたのかもしれない。後で聞くと、昔から多くの人々に愛され、信仰の対象になっている地蔵だということだった。だとすると、やはりこの地蔵も日本人の宗教的な憧れを体現しているのだろう。いったい、どんな憧れなのだろうか。
 キリストは、弟子たちに子どものようにならなければ「神の国」に入ることはできないと言った。それと何か通じるものがあるような気がする。この地蔵の顔を見ると、まるでなんの警戒心もなくすべてのものを受け入れているように感じられる。無邪気な子どものように、まわりの人たちの善意をまったく疑うことなく、ただ信頼して微笑みかけているように見える。イエスも、そのような心で神を信頼せよと弟子たちに教えたのではなかっただろうか。
 人間関係の中でいろいろな苦い経験をし、さまざまな傷を負いながら大人になっていくうちに、わたしたちは他人を無条件に信頼することができなくなっていくようだ。傷つけられたくない、不愉快な思いをしたくないという気持ちから、わたしたちは自分の周りに厚くて堅い、不信感の殻を作りあげていく。その殻は、他の人間から自分を守ってくれる殻であると同時に、実は自分を神様から遠ざける殻にもなっているのではないだろうか。一度そのような殻を作ってしまうと、神様がどれほど愛に満ちた方だと聞いても、心の底から信頼して自分をさらけ出すことができなくなってしまうような気がする。そのようにして、人間は自分から神の愛を拒んでしまうのではないだろうか。
 そう考えていくと、あの石の地蔵は、神仏に信頼し、世界を信頼し、すべての人間を信頼して、何の警戒感も抱かず天真爛漫に、幸せに生きることへの日本人の憧れを示してるのではないかと思えてくる。わたしも神を信頼して、自分の周りにある殻を壊してしまいたい。そうすれば、すべての人を信頼することができるようになるだろうし、もしそれで傷つけられたとしても神様から癒していただくことができるだろう。




※写真の解説…1枚目、本文で言及したお地蔵さん。「わらべ地蔵」と呼ばれている。2枚目、お寺の手水鉢とアジサイ。3枚目、涼しげに流れ落ちる滝。