入門講座(12) キリストの教会③〜秘跡としての教会〜

《今日の福音》マタイ9:32-38
「収穫は多いが働き手が少ない」と、イエスが嘆いておられる場面が読まれています。
 現代の日本社会を見わたすとき、イエス様はきっと同じ嘆きを語られるでしょう。多くの人々が生きがいや生きる意味、自分が自分としてありのままに受け入れられる場所などを探し求め、さまよっているからです。探しても探しても見つからず、探しているうちに人間関係の中で深く傷つけられたり、疲れきってしまったりする人もたくさんいるようです。
 教会は、そのような人たちのためにイエス・キリストという生きがい、生きる意味、安らぎの場所を告げ知らせる使命を与えられています。イエス・キリストが昇天し、その姿が見えなくなったあと、教会にはイエス・キリストの目に見える姿として神の愛を人々に告げ知らせる使命が与えられたのです。今日は、そのことについて勉強したいと思います。

秘跡としての教会》
 現代において、教会は「旅する神の民」であり、「全人類のための救いの秘跡」だと言われています。今回と次回で、それが何を意味しているのか考えてみたいと思います。今回は、教会が「全人類のための救いの秘跡」だということの意味について考えます。秘跡と言うと御聖体や洗礼などを思い浮かべますが、教会自体が秘跡だとは一体どういうことなのでしょうか。

1.教会理解の変遷
 教会が秘跡だと言われるようになったのは、20世紀に行われた第二バチカン公会議以降のことです。では、それまで教会は自分のことをどのように理解していたのでしょうか。教会の自己理解の変遷を簡単にたどってみたいと思います。
(1)古代…キリスト教に対して厳しい迫害が行われていた古代には、教会は「ノアの方舟」とか「ペトロの舟」というイメージで自分を理解していました。教会の外は罪にまみれた世界だが、教会の中にとどまり続ける限りいつか必ずイエス・キリストによって救われると考えて、人々は過酷な迫害を乗り越えていったのです。
(2)中世…中世になって教会が封建領主のような世俗的な力を持つようになってくると、「二振りの剣」というイメージが使われるようになりました。このイメージはルカ22:38に基づくものです。迫害が近づいたことを悟ったイエスが、弟子たちに財布と袋と剣を準備しなさいと言うと、弟子たちは近くにあった二振りの剣を持ってきます。それを見たイエスは「それでよい」と言われました。中世の神学者教皇は、この剣の1本が皇帝の世俗的権力であり、もう1本が教皇の聖なる権力だと考え、世俗的権力は聖なる権力に従属するべきだと主張したのです。
(3)近代…近代になって既存の権力組織に対する革命運動が起こり始めると、教会は教皇を頂点とした位階制度としての自己理解をより大切にするようになっていきます。その中で使われたイメージは、「完全な社会」というものです。教会は、神の恵みを仲介する制度を持った完全な組織であり、社会だということです。また、「キリストの神秘体」というイメージも、同じような意味で使われました。
(4)現代…第二バチカン公会議は「教会憲章」という文章の中で、教会は「神の民」であり、「全人類の救いのための秘跡」であると述べました。

2.秘跡とは何か?
 では、そもそも秘跡とは一体何なのでしょう。
(1)もともとの意味
 秘跡を意味するギリシア語ミュステリオンは、新約聖書において神のキリストにおける救いの計画や救いの業をさす言葉でした。そのため、古代の教父たちはまずイエス・キリスト秘跡と呼び、同時にイエスの救いの業の目に見える形としての教会も秘跡と呼んでいました。やがて秘跡は教会のみを指す言葉として用いられるようになりましたが、次第に洗礼や聖餐などの教会を構成するために不可欠な要素も秘跡と呼ばれるようになっていきました。
(2)アウグスティヌスの定義
 このように発展してきた秘跡の概念を、わかりやすく定式化したのがアウグスティヌスです。アウグスティヌスは、秘跡を「見えない恩恵のたまものが、経験可能なしるしを通して確実に与えられること」と定義しました。わたしたちは神の愛を目で見たり、体で感じたりすることができないけれど、秘跡というしるしを通してならば神の愛を目で見たり、体で感じたりすることができるということです。
 それも、イエス・キリスト秘跡を定めてくださった以上、秘跡を通して神の愛が与えられることは確実だと考えられます。旧約の祭儀には恵みが確実に与えられるという保証がありませんでしたが、新約に基づく秘跡は確実にわたしたちに神の恵みをもたらしてくれるのです。
(3)7つの秘跡
 中世になると、洗礼、堅信、聖体、叙階、結婚、赦し、病者の塗油という7つの行為が、神の愛の目に見える確実なしるしとしての秘跡であると考えられるようになりました。トリエント公会議は、このような秘跡理解から7つの秘跡について明確な規定を与えています。このころから、秘跡は、イエス・キリストや教会ではなく、教会を構成する個々の秘跡のことを意味するようになっていきました。
(4)原点に立ち返る
 第二バチカン公会議は「教会憲章」の中でたびたび、教会こそが秘跡だと述べています。秘跡はもともと教会を指す言葉として使われていたわけですから、第二バチカン公会議は言葉の原点に立ち返ったということができます。

3.原秘跡としてのイエス
 第二バチカン公会議は教会を秘跡と呼びましたが、もっとさかのぼって考えれば、見えない神の恵みの、目に見える最も確実なしるしはイエス・キリストに他なりません。教会を秘跡と呼ぶ場合、そのことを忘れてはいけないと思います。
(1)すべての秘跡の根拠
 教会にしても、7つの秘跡にしても、それらが神の愛の目に見える確実なしるしだと言えるのは、イエス・キリストに由来するからに他なりません。そのもっともはっきりした例は御聖体でしょう。パンとブドウ酒は、もしイエス・キリストが最後の晩餐の席でそれらを自分の肉であり血であると言わなければ、ただのパンとブドウ酒のままだったでしょう。しかしイエスが聖餐の儀式を制定したため、聖餐式の中で聖変化されたパンとブドウ酒は、キリストの御体と御血としてキリスト教徒にとって神の愛の目に見える確実なしるしとなったのです。
 御聖体、洗礼、堅信などの秘跡は、キリスト教徒にイエス・キリストをとおして人類にはっきりと示された神の愛を思い起こさせ、それらにおいて神の愛を確実に体験させるものであるがゆえに秘跡と呼ばれるのです。教会も、イエス・キリストを思い起こさせ、神の愛を体験させる場であるからこそ秘跡と呼ばれます。
(2)秘跡としてのイエスの人性
 イエス秘跡であるという場合、目に見えるしるしは人間としてのイエスに他なりません。イエスの肉声、仕草、表情、行動、雰囲気など、人間イエスのすべてが神の愛の目に見えるしるしとなったのです。もしイエスが完全な神であると同時に完全な人間でなかったならば、わたしたちは神の愛を目で見たり、体で感じたりすることはできなかったでしょう。

4.根本秘跡としての教会
(1)キリストの体
 イエスが復活後、昇天したことによって、もはやわたしたちは人間としてのイエスを目で見たり、手で触ったりすることができなくなりました。しかし、イエスは人間が目で見えないものや手で触れないものを信じにくいということをよく御存じでしたので、教会という神の恵みの体験可能なしるしを残してくださいました。その意味で、教会は「キリストの体」だということができます。
 パウロが言っているように、教会は「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」(エフェソ1:23)なのです。昇天してしまった人間イエスの体の代わりに、教会は「キリストの体」として、キリストの表情、キリストのまなざし、キリストの仕草、キリストの雰囲気、キリストの共感、キリストの憐み、キリストの温かさを人々に伝えるしるしとなる使命を帯びていると言えます。マザー・テレサは、そのことを次のように表現しています。

「イエスの愛となれるように、
 イエスの共感となれるように、
 そしてお互いにとって、またわたしたちが仕える貧しい人々にとって、
 神の存在となれるように努めましょう。」

(2)全人類の救いの完成
 教会が「救いの普遍的秘跡」(教会憲章48)、すなわち全人類のための救いの秘跡であるという主張は、全人類の救いが教会によって体現されるイエス・キリストの救いによって完成されるという主張を含んでいます。全人類は、教会が伝えるイエス・キリストを通して、初めて救いの完成に到達することができるということです。その意味で、第二バチカン公会議は伝統的な、「教会の外に救いなし」という教えを堅持しているということができます。教会の外にも救いの端緒はありますが、それらは教会を通して、イエス・キリストとの出会いにおいて完成するとカトリック教会は信じているのです。
(3)全人類に開かれた教会
 全人類のための救いの秘跡であるためには、教会は全人類のために開かれたものでなければなりません。世界に対して自分を閉じ、教会の中にいる人だけ救われるという態度をとることは、秘跡としての教会にふさわしい態度ではないでしょう。「教会は全人類のための救いの秘跡である」という主張には、教会はキリスト教徒だけのためのものではなく、全人類のためのものであるというメッセージが込められていると考えることができます。「秘跡としての教会」は、必然的に「開かれた教会」でなければならないのです。
 全人類に向けて開かれたものとなるために、教会は現代社会に生きる人々の素朴な疑問、人生の意味への問い、世界のあるべき姿への問いなどに答えるための努力を、誠実に続けていく必要があるでしょう。ありのままの自分を受け入れてほしいという多くの人々の望みに応えて、人々をありのままに受け入れる場になっていく必要もあると思います。
(4)あくまでもイエス・キリストが土台
 教会が「全人類のための救いの秘跡」だと言う場合には、教会が神の救いのしるしであるのはイエス・キリストとつながっているからだということを必ず思い出す必要があります。そうでなければ、教会自体が何か救いの力を持った偉い存在であるかのような誤解に陥る可能性があるからです。
 わたしたち自身、聖書を通して、祈りのうちにイエス・キリストに耳を傾けないならば神の恵みについては何も知らないのだという謙虚な心が必要だと思います。教会があくまでも謙虚に、しかし全人類の救いの秘跡であるという自覚を忘れることなく、福音宣教の使命を果たしていくことができるよう祈りたいと思います。

・岩島忠彦、『キリストの教会を問う』、中央出版社、1987年。
南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『聖なるものとなりなさい マザー・テレサの生き方』、ドン・ボスコ社、2002年。