入門講座(13) キリストの教会④〜「神の民」としての教会

《今日の福音》マタイ11:20-24
 イエスが、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムなど、ご自分と深い関係のある町々のことを嘆いておられる場面です。ちょっと読むと呪いの言葉のようにも思える箇所で、解釈が難しいところです。
 なぜソドム、ティルス、シドンなど、旧約聖書で罪深い町と呼ばれている町々よりも、新約聖書の舞台となった町々、つまりイエスが御自身で歩き回り、奇跡などを行った町々の方が罪深いのでしょうか。その決定的な違いは、新約の町々にはイエス・キリストをとおして神が完全に示されていたことにあると思います。新約の町々は、イエスを通して神の愛を知りながら、神の愛に背を向けてしまったのです。イエスは、この箇所できっとそのことを嘆いておられるのでしょう。神がこれほどの愛を示したにも拘らず、その愛に背を向けてしまうほど頑なな人々の心を嘆いておられるのだと思います。

《「神の民」としての教会》
 前回、教会は全人類の救いのための秘跡、すなわち「見えない神の恵みの体験可能なしるし」だという話しをしました。教会の体験可能なしるしとは、一体何なのでしょうか。それは、現代において何よりも「神の民」であるわたしたち一人ひとりだと考えられています。わたしたち一人ひとりが神の恵みの目に見えるしるしとなる使命を負っているということです。その意味で、秘跡としての教会は、「神の民」としての教会とほとんど同じだということができます。今回は、教会を見るときのもう一つの視点である「神の民」の視点から、教会について考えてみようと思います。

1.「神の民」の秘跡
 教会が「目に見えない神の恵みの体験可能なしるし」だとすれば、そのしるしは何にあるのでしょうか。教会建築、教会音楽なども、神の愛の目に見える「しるし」だということができるでしょう。なぜなら、すばらしい教会建築や教会音楽に触れることで、人は神の偉大さや慈悲深さ、美しさなどに触れることができるからです。
 ですが、人間イエスの最もはっきりした「しるし」は、やはり教会の構成員であるわたしたち信者一人ひとりだろうと思います。人間だけがイエスの言葉を地上に宣べ伝え、イエスのように微笑み、イエスのように苦しんでいる人の傍らに立ち、イエスのように不正に対して立ち上がることができるからです。わたしたち一人ひとりの信者は、イエスを人々に思い起こさせることで、神の恵みをこの地上に表す「しるし」になることができるのです。
 第二バチカン公会議の教会憲章は、神の民が「生命と愛と真理の交流のためにキリストによって設立され、すべての人のあがないの道具として採用され、世の光、地の塩として全世界に派遣されている」(第9節)と宣言しています。ここでいう「あがないの道具」こそが、秘跡としての教会に他なりません。

2.信徒、修道者、聖職者
 「神の民」は、信徒、修道者、聖職者の3つのグループから成り立っています。「神の民」全体を表す言葉は、「信者」です。教皇様でも誰でも、洗礼を受けたカトリック信者は、みな同じ信者です。信徒と信者が混同されることがありますが、正確な用法を覚えておくといいでしょう。
 信者の中で最も数が多いのは言うまでもなく信徒ですし、信徒は世俗の中にとどまって福音宣教をする使命を与えられています。その意味で、「神の民」が全人類のための救いの秘跡であるという場合に、もっとも大きな「しるし」は信徒だということができるでしょう。
(1)聖職者…司教、司祭、助祭のことです。叙階の秘跡を受けることによって、男子の信者は聖職者になることができます。修道者であっても、叙階の秘跡を受けていなければ聖職者ではありません。
(2)修道者…教会によって認可された修道会に所属し、清貧、貞潔、従順という3つの誓願を立てた信者のことを修道者と呼びます。
(3)信徒…叙階の秘跡を受けず、修道会にも所属せずに、世俗の中にとどまって福音宣教をする使命を与えられた信者のことを信徒と呼びます。

3.信徒概念の変遷
 「神の民」の大多数を占める信徒の教会内での取り扱いは、時代によって変化してきたようです。
(1)古代…教会が迫害を受けていた古代には、信徒と聖職者の違いよりは、教会に属する「神の民」と教会外の人々の違いが強調されていたようです。信徒と聖職者は、同じ「神の民」として一致を保っていました。
(2)キリスト教の国教化…キリスト教が国教化され、キリスト教徒が社会の大部分を占めるようになると、教会内での役割の違いとしての信徒と聖職者の違いが強調されるようになりました。しだいに聖職者が上級の信者として扱われるようになり、教会の中に聖職者優位の構造が出来上がっていったのです。
(3)中世…中世になると、十分な教育を受けた聖職者層と、読み書きも不十分にしかできない信徒層という構造が出来上がっていきました。聖職者は学者、賢者として、信徒は無学な愚者として扱われるようになっていったのです。
(4)近代…啓蒙思想が台頭し、聖なる権威ではなく世俗に価値があると考えられるようになったのに伴って、信徒の立場も再評価されるようになりました。「神の国」はこの世俗であるこの地上にこそ実現されるべきだと考えられるようになったのです。
 プロテスタント運動の始まりであるマルティン・ルターは、聖職者制度を廃止し、万人が司祭である教会を作ることを目指しました。ルターは牧師制度を導入し、一信徒である牧師に教会を司牧する役目を与えました。
(5)現代…第二バチカン公会議の教会憲章は、「キリストの体の建設に関しては、すべての信者に共通の尊厳と働きの真実の平等性がある」(第32節)と宣言しました。秘跡としての教会の働きにおいて、信徒と聖職者はまったく対等であることを宣言したのです。これは、教会の歴史の中で画期的な出来事だということができます。

4.信徒の使徒
 では、信徒は実際にどのようなやりかたで「キリストの体」、「神の恵みの体験可能なしるし」となっていくのでしょうか。第二バチカン公会議は、信徒がキリストの三職に与っているという表現でそのことについて説明しています。キリストの三職とは、祭司職、預言職、王職のことです。
(1)祭司職…キリストは、自らの生涯を神に捧げ、十字架上でご自分の命までも捧げることで神と人間の交わりを完全に回復しました。その意味でキリストは、生贄を捧げることで神と人間の交わりを回復した旧約の祭司の仕事を引き継いだと考えられます。キリストは、旧約の祭司たちの仕事を完成したということです。このキリストの祭司職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で自己を犠牲にして神のために行動し、その犠牲をミサで神に捧げる使命を負っています。
(2)預言職…キリストは、神の言葉を語り、病を癒し、貧しい人々と共にいることによって神の愛を証しました。このキリストの預言職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で言葉と行いによって神の愛を証する使命を負っています。
(3)王職…キリストは、①王的な自由さで罪の支配に打ち勝ち、また②へりくだって人々に仕えることで神によって高く王の位にまで挙げられました。このキリストの王職を引き継いで、信徒は日々の生活の中で毅然として悪を退け、人々に奉仕することで王となる使命を負っています。

5.信徒に固有の務め
 キリストの三職はすべての信者に与えられた務めですから、聖職者も信徒もそれぞれのやり方でこの務めを果たしていかなければなりません。信徒に固有の務めとして以下の2つを挙げることができるでしょう。
(1)家庭生活における証…信徒は結婚して自分たちの家庭を築きあげ、その中で円満な家族関係や子育てを通してキリストの三職を全うしていくことができます。聖職者は、終身助祭を除いて結婚していませんから、結婚による証をすることができません。
(2)社会の中での証…信徒は、社会の中で経済的、政治的に重要な役割につき、社会を動かしていく中でキリストの三職を全うすることができます。聖職者は通常、会社で働くことはありませんし、また政治家になることも禁じられています。

6.「信徒の時代」はどこまで進んでいるのか?
 福音宣教において信徒と聖職者がまったく平等であると宣言され、信徒に固有の役割が確認されたことで、教会には「信徒の時代」が来たと言われています。これまでの「聖職者中心主義」の時代が終わって、信徒が福音宣教において主体的な役割を担う時代が来たということでしょう。聖職者たちもさかんに「信徒の時代」、「信徒の教会」ということを語っています。
 第二バチカン公会議から40年あまりが経過しましたが、はたしてこの「信徒の時代」はどこまで実現したのでしょうか。いくつかの具体例を見てみたいと思います。
(1)信徒の典礼での役割が増加した。 
例・聖体授与の臨時の奉仕者、集会祭儀司式者など。
(2)教会外部に向けた福音宣教での役割が増加した。 
例・信徒による入門講座、信徒の社会運動への参加など。
(3)教会運営において、信徒の発言権が強くなった。 
例・教会評議会の役割の強調
 以上でいくつかの達成点を確認しましたが、千年以上にわたって続いてきた聖職者優位、聖職者中心主義の構造を変革するには、まだまだ時間がかかることも事実だと思います。聖職者と信徒が、「神の民」としてのお互いへの尊敬を持ちながら、これからも忍耐強く新しい道を模索していく必要があるでしょう。次のマザー・テレサの言葉を深く味わいたいものだと思います。
「あたなたたちができることをわたしたちはできませんし、
 わたしたちができることをあなたたちはできません。
 でも、一緒になれば神様のために何か美しいことができます。」
《参考文献》
・岩島忠彦、『キリストの教会を問う』、中央出版社、1987年。
南山大学監修、『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『新カトリック大辞典Ⅲ』、研究社、2002年。
・『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』、ドン・ボスコ社、2001年。