フォト・エッセイ(24) HIROSHIMA2008


 イエズス会の教会使徒職フォーラムに参加するため、久しぶりに広島に行ってきた。
 会議が始まる前に平和公園を散歩し、原爆資料館を見学した。昨年観た「夕凪の街・桜の国」という映画が印象に残っていたこともあって、久しぶりにゆっくり原爆資料館を見直したくなったのだ。
 もう何回も見た展示のはずなのだが、ボランティアの方々の説明を聞いたり、焦げてボロボロになった子どもの服などの展示品と向かい合ううちになんともやりきれない気分になった。そして、「一体、どうしてこれほどの暴力が行使されえたのだろうか?」、「一体どれほどの憎しみがあれば人間にこんなことが実行できるのか?」、そんな問いが心に重くのしかかってきた。
 人間の心には、ときに相手を消し去ってしまいたいと思うほどの怒りや憎しみがこみ上げることがある。戦争によって何千万人もの人の心の中に生れたそのような怒りや憎しみが一つになり、不快感、むかつき、いらだち、嫉妬、差別などによって最大限にまで増幅され、巨大な津波のようになって広島を押し流したのではないだろうか。ふと、そんなことを考えた。どす黒く、どろどろとした巨大な怒りと憎しみの波が、十数万人の人々の命を一気に消し去り、無数の人々の体と心に深い傷と痛みを残したのだ。
 原爆を落とした人々の心に宿っていたのと同じ種類の感情は、わたし自身のなかにも存在する。そう思ったとき、どうしょうもないほどの自己嫌悪が込み上げてきて、吐き気がした。これほどの惨劇を引き起こした邪悪な感情が、わたし自身のなかにも宿っているのだ。もし戦争か何かの理由を与えられれば、その感情は増幅し、大きな波のようにわたしの心からあふれ出すかもしれない。他の人々の怒りや憎しみと一つになるなら、それは押しとどめようもないほど巨大な波になるだろう。もしそのときわたしたちの手元に原子爆弾があったら、わたしたちはためらわずにそれを使うかもしれない。
 人間の心の中に、相手の存在を消してしまいたいほどの怒りや憎しみが宿り続ける限り、人間は原子爆弾を持つべきではない。持てば、感情に押し流されてきっと使ってしまうだろう。人間はそれほどまでに罪深い存在なのだと思う。原水爆だけでなく、人の命を奪うための武器は、この地上からすべてなくなってしまった方がいい。「平和はわたしたち一人ひとりの心から始まる」とよく言うが、まず自分自身の中から怒りや憎しみを消し去ってしまいたい。原爆資料館の展示品と向かい合いながら、そう強く思った。
 資料館の出口の近くに、マザー・テレサが資料館に来館したときに残したメッセージが展示されていた。そこには次のように書いてあった。
 「神がわたしたち一人ひとりを愛してくださるように、互いを愛し合いましょう。広島にこれほどまでの苦しみをもたらした恐ろしい邪悪さが、再び生まれることのないように。愛と祈りこそが平和をもたらすのだということを思い出しましょう。」
 この言葉を深く胸に刻みたい。




※写真の解説…1枚目、原爆ドーム。2枚目、慰霊碑。3枚目、「原爆の子」の像。