フォト・エッセイ(26) 港神戸花火大会


 昨日は朝から夕方まで全力を尽くして働いていたのだが、夜だけちょっと「港神戸花火大会」に行ってきた。「毎日、山に登ったり海で泳いだり結構な御身分やな」と重大な誤解をする人がいるかもしれないので、念のために弁明しておく。
 三宮駅から会場に続くすごい数の人波を見たときには「これは大変なところに来てしまった」と正直思ったのだが、会場の第一突堤まで行ってしまうとそれほど混んではいなかった。座る場所もすぐに見つけることができ、意外にゆったりと花火を見ることができた。日没前の港の景色も美しく、花火大会のムードを盛り上げてくれた。
 花火は期待通りとても美しかった。打ち上げられた数千発の花火を見上げながら、しばし現実を離れて幻想的な世界に漂うことができた。これまでにも花火はいろいろなところで見てきた。東京にいたころは、隅田川神宮外苑の花火をよく見に行ったものだ。これまでは、さまざまな工夫を凝らした花火を1年間かけて作ってきた花火職人たちの情熱に敬意をいだきながら花火の美しさに見とれていることが多かったように思う。だが今回は、見ながら何か胸を締め付けられるような切なさを感じた。これほどまでに美しい光の芸術がわずか一瞬で消え去り、あとには何も残らないという事実が、なぜかいつになく心に迫ってきたのだ。
 司祭叙階を来月に控え、ここのところ「自分はどんな司祭になったらいいのだろう」ということをよく考える。たぶん、そのことが今回の心の動きを生んだのだと思う。わたしが抱いている理想の司祭像は、生きている限り神の愛を人々に伝えるという使命のために全力を尽くすが、過ぎ去ったあとには自分を何も残さないという姿だ。ちょうど洗礼者ヨハネが「あの方は栄え、わたしは消えていかなければならない」と言ったのと同じように、わたしの生涯を通してイエス・キリストの愛だけが人々の心に残り、わたし自身についての思い出は何も残らないというのがいいと思う。「××神父様によって救われた」というのではなく、「イエス・キリストによって救われた」という思いだけが人々の心にに残るような働きができれば、それが一番いい。自分自身のことではなく、イエス・キリストのことを人々に伝えるのが司祭の役目だと思う。
 そのような司祭の生きざまは、花火のイメージと重なるものがある。自分の生涯を通してただ神の栄光の光だけを輝かせ、燃焼しきったあとには何も自分を残さないということだ。何年かごとに転勤していく司祭たちのことを、いちいち記憶している人も少ないだろう。病などで倒れるようなことがあれば、もう誰も思い出す人さえいないかもしれない。そういうことを考えると、とても切ない気持になる。だが、同時にそれでいいのだとも思う。司祭に与えられた使命は、ただイエス・キリストの愛を人々に伝えることだけなのだから。そのこと以上に大切な使命を、わたしは他に見つけることができない。だから、その使命のためにわたし自身が忘れ去られたとしても、それは望むところだ。
 そんなことを思いながら見た今年の花火は、切ないまでに美しかった。わたしも、生きている限り神の栄光をこの地上に輝かせて、あとには何も残さず神の御許に帰っていきたいものだと思う。




※写真の解説…1枚目、花火大会会場の第一突堤から見た神戸港の夕焼け。2枚目、3枚目、花火の残像。