やぎぃの日記(3) 平和の祈り


 昨日は、教会の若者たちと一緒に神戸地区の平和旬間記念行事に参加してきた。
 キャンプ明けでやや疲れ気味だったのだが、今回の行事のメインだった山口ブラザーズバンドの熱い演奏を聞いているうちに疲れはどこかに行ってしまい、結果として夜のライブでは3時間立ちっぱなしで大いに盛り上がってしまった。ロックンロールにはこれまであまり馴染みがなかったのだが、昔どこかで聞いたような曲が演奏されると懐かしくて血が騒いだ。若者たちと一緒に、しばしロックで体と心を揺さぶられる時を過ごすことができた。世代の違いを越えて心を一つに結びつける音楽の力は本当に偉大だ。3時間立っていたのに、疲れをまったく感じなかった。
 そもそも山口ブラザーズのギター兼ボーカルの山口神父さんは、わたしと同い年の方だ。わたしよりやや年上のある教区司祭も、若者たちを圧倒するくらいの勢いで叫んだり踊ったりしておられた。ふだん教会ではまったく見ることのできない、神父さんたちの意外な一面を見ることができたのも面白かった。
 今回の平和旬間記念行事は、まず午後から住吉教会で祈りと歌の集いがあり、そのあと夕方から三宮のライブ・ハウスで平和にちなんだライブがあるという構成だった。わたしは両方に参加した。住吉教会での集いは、ある若者の「アベ・マリア」と「シャローム」の独唱から始まって、山口ブラザーズの演奏で終わるまで、終始深い祈りの雰囲気の中で行われた。昨日は長崎の原爆忌でもあったのだが、山口ブラザーズのボーカリストは奇しくも長崎出身の被爆二世の方だった。彼が語った父母から聞いたという被爆体験の話も、彼の歌と共に祈りの雰囲気を深めてくれた。
 祈ったり、歌を聞いたりしているうちに強く思ったのは、平和は祈りに他ならないということだった。平和をどう定義するかにもよると思うが、もし平和が地上における「神の国」の実現であるとすれば、それは祈りによってしか起こり得ないことだと思う。肉に縛られた人間の心は、すぐに欲望や本能に引きずられて神様のそばから離れていってしまうからだ。頭ではみんなが仲良く、お互いの違いを尊重しながら生きていくのがいいと分かっていても、実際の行動はそううまくいかない。すぐに自分の物差しで相手を測って裁いたり、自分の欠点を棚に上げて相手の欠点に腹を立ててみたり、つかの間さえも平和を保っていることは難しい。神様ではなく、自分だけを見て行動してしまうのだ。
 神から背を向け、暴走し始めた人間の心は、ときに途方もなく残虐になることがある。目障りな存在、邪魔な存在は消えてしまえという思いが、心の底から湧き上がってくるのだ。その思いがピークに達すると、人が人の命を奪うということが起こってくる。その憎しみと怒りのエネルギーが国家レベルにまで広がれば、戦争や虐殺が生まれる。人間はこれまでに何回となく戦争の苦しみを味わい、そのたびに不戦の誓いを立ててきた。しかし、それでも人間の罪深い本性は変わることなく、神様の愛に背を向けて自分の利益だけを考えようとし続ける。その結果として、悲惨な戦争や虐殺が歴史の中で何回となく繰り返されてきたのだ。
 もし祈りの中で神に心を向けなおさなければ、わたしたちは自分に引きずられて罪の中をさまよい続けるしかないだろう。そこには、神の愛の中での安らぎや喜びなど存在しない。ただ欲望の一時的な充足があるだけだ。何かを手に入れれば入れるほど、快楽を味わえば味わうほど膨張していく人間の欲望は決して完全に満たされることがなく、いつまでも不平と不満が残り続ける。そこに心の平和はなく、心の平和がないところには世界の平和も存在しないだろう。
 平和に生きるために、わたしたちは絶えず祈りによって心を神に向けなおし続けなければならないと思う。祈りによってのみわたしたちは、「神の国」に心を開き、神の愛に満たされ、神の言葉を聞いて心を正しい方向に向けることができるからだ。心を正しい方向に向けた上で日々の生活を精いっぱいに生きていくならば、わたしたちが生きること自体によってこの世界に平和が実現していくだろう。その意味で、平和とは祈りに他ならないと思う。
 昨夜ライブハウスで燃え上がり、神に向かって発せられた祈りの歌が若者たちの心を導き、この世界に平和を実現していくことを心から願わずにいられない。
※写真の解説…広島・世界平和記念聖堂。