バイブル・エッセイ(20) なりふり構わぬ愛


エスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。(マタイ15:1-28)

 子供たち、すなわちユダヤ人のためのパンを取って子犬、すなわち異邦人に与えてはならないと言って、初めイエスは異邦人の女性の願いを拒絶します。どうやらイエスは、神から選ばれた民であるユダヤ人を救うのが自分の第一の使命だと考えていたようです。ところが、イエスは最後に「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って彼女の願いを聞き入れました。どうやら、この女性の信仰がイエスの心を動かしたようです。イエスが立派だと言ったこの女性の信仰とは、一体どのようなものなのでしょう。
 この女性の願いはただ一つ、悪霊によって苦しめられている自分の娘を救ってもらいたいということだけでした。娘を助けたい一心で、この女性は人前で大声を上げて泣き叫び、なりふり構わずイエスにすがりついたのです。彼女はイエスの言葉に対しても口答えし、しつこく食い下がりました。この母親の子を思う熱烈な愛情が、イエスの心を動かしたようです。
 この話を読んでいて、以前に東京拘置所の面会待合室で見かけた光景を思い出しました。わたしはそのころ、月に一度東京拘置所に入所している人達を訪問するボランティアをしていました。面会までには30分から1時間くらい、待合室で待たなければいけません。その日もわたしは、面会の順番を待ってベンチで本を読んでいました。すると、受付の方から女性の大きな声が聞こえてきました。見ると、お百姓さんのような格好をした女性が小脇に風呂敷包みを抱えて、東北弁まるだしで係員に何か訴えかけています。「なんとか息子に会わせてください。きっと何かの間違いなんです」と女性は泣きながら係員にすがっていました。しかし、係員はまだ入所したばかりだから会わせることができないと言って彼女の願いを拒みました。あの女性はきっと入所者のお母さんで、息子が拘置所に入れられたと聞いて大慌てで田舎から駆けつけてきたのでしょう。最後には女性は床にしゃがみ込み、「せめてこの下着を息子に渡してください」と言って風呂敷包みを係員に差し出して泣き出しました。その姿を見ていたわたしは、彼女の息子を思う愛情強さに心を深く揺さぶられました。
 おそらく、それと同じような光景がイエスの前で繰り広げられたのでしょう。イエスは、母親の娘を思う深い愛情に心を揺り動かされ、ユダヤ人だけでなく異邦人をも救う決心をしたのだろうと思います。この女性のなりふり構わぬ願いをイエスは「立派な信仰だ」と言い、彼女の願いを聞き入れたのです。
 今日の福音からはっきり言えるのは、愛する人のことを思ってなりふり構わずに上げられる心の底からの叫びのような祈りを、イエスは必ず聞き入れてくださるということでしょう。イエスは、母の子を思う愚かなまでの愛情に共感できないような方ではありません。もしわたしたちが心の底から真に願い、なりふり構わずイエスに縋りつくならば、イエスは必ずわたしたちの願いを聞き入れてくださるのです。そのような願いをイエスは、「立派な信仰だ」とさえ言ってくださいます。愛する人のことを思い、イエスに向かって心の底から救いを求めるということは、それ自体として「立派な信仰だ」とイエスは言うのです。
 わたしたちも日々の生活の中で、またミサの中で、この女性の信仰に見習いたいものだと思います。見栄やプライドを捨て、ただひたすらに愛する人の救い、そして自分自身の救いを願うならば、イエスは必ずわたしたちを救ってくださるでしょう。たとえ、わたしたちが罪深い異邦人であったとしも。わたしはそう信じています。
※写真の解説…子どもを見つめるハンセン病の女性。インド、カルカッタ近郊の療養施設にて。