やぎぃの日記(4) 憲法9条と平和

《お知らせ》8月25日から27日まで、教会学校リーダー研修会のため留守にします。その間、更新やコメントへの応答はできません。

 「やぎぃの会」の第3回定例会があった。今回のテーマは「憲法9条と平和」だった。教会学校のリーダーをしている青年2人が、今年の5月に参加した「憲法9条世界会議」の体験を踏まえて30分ほどの発表をしたあと、いつものようにグループに分かれて分かち合いをした。昨夜、教会行事の「納涼の夕べ」があったばかりなので今日は集まりにくいかなと思っていたが、予想に反して20人の若者が集まった。分かち合いもかなり白熱したものになり、いつもより30分延長することになった。どうやら、若者たちは平和や憲法9条について同世代の仲間たちと真剣に話す機会を求めていたようだ。まだまだ時間が足りないという意見まで出ていた。
 わたし自身、あらためて憲法9条と平和について真剣に考える機会を与えられてうれしかった。昔、法学部で勉強していた頃には、ずいぶん憲法9条について議論したり、憲法を守るための集会に参加したりしたものだ。わたしが学生の頃は、ちょうど湾岸戦争があって反戦運動が盛り上がっていた時期だった。湾岸戦争への自衛隊の派遣についての議論もあり、今こそ憲法9条を守れという機運が高まっていた。あの頃はまだ社会党が存在し、憲法9条をなんとしても守れという主張がまだ一定のリアリティーを持っていた。そのあと社会党がなくなってしまい、主な政党がすべて自衛隊を合憲だと判断してしまってからは、もうあまり9条といっても仕方がないなという気分になっていた。どこからどう見ても軍隊である自衛隊を認めながら、憲法9条を守れと叫んでもどうなのかなぁと思ったからだ。わたしにとって憲法9条とは、一切の武力を持たないことを宣言した、完全な非暴力平和主義の条文に他ならないのだ。
 残念ながらこのような憲法解釈は、現代の日本人にとってもはや教条主義としか感じられないのだろう。そうだとすれば、それを無理やり押し付けることは不可能だ。「9条は絶対に大切だから守れ」と言って力づくでも平和憲法を守らせてやるというような態度に出るのは、まったく本末転倒だし、矛盾しているし、言論の自由という大切な人権を侵害する暴挙だろう。そもそも、憲法の精神を根源的に踏みにじるものだとさえ言える。そのくらいのことは自分でもわかる。
 最近、さかんに行われている憲法9条についての議論を聞いていても、どうも今ひとつピンとこない。自衛隊の存在を認めてしまった憲法9条に、もうあまり執着がないからかもしれない。いっそのこと、この機会に国民の間で徹底的に議論を深め、もっといい条文を作ったらいいのではないかとさえ思う。まったく解釈の余地がないくらい明白な平和憲法が作れれば、それに越したことはないだろう。完全な非武装中立、戦力の放棄が実現するなら、日本は全世界に対して何らかのメッセージを発することができるのではないかと思う。
 ただ、憲法改正を視野に入れた議論に今すぐ踏み込むことには、若干のためらいがある。なぜなら、非武装中立に向けて国民の大多数を納得させられるほど説得力のある言葉が、まだはっきりと見つかっていないからだ。今のままで議論に踏み込めば、憲法は簡単に改正されてしまい、人権制約規定とセットになった戦争容認の条文が憲法に盛り込まれるだろう。それは困る。
 現在の世界では、残念ながらまだ邪悪で強大な暴力が、国家レベルで行使されることがたびたびある。ルワンダでの大虐殺では国際社会による武力介入の遅れが致命的な結果を招いたし、現在進行中のダルフール紛争に対しても国際社会による武力介入の必要性が叫ばれている。歴史を振り返っても、ナチスクメール・ルージュに対して誰も武力で立ち上がらなければ、今の世界はどのようなものになっていただろうか、想像するだけでも恐ろしい。そのような現実を直視ながら、それでも日本は非武装中立を保つべきだと主張するためには、よほど強力な根拠が必要だろう。
 おそらく、望むと望まざるとにかかわらず、憲法改正を視野に入れた国民的議論は近いうちに起こるだろう。そのときになってから、あわてて考えても遅い。今から、十分な説得力のある平和主義の主張を準備しておく必要がある。わたしたちキリスト教徒にとって、平和主義の確固たる根拠はイエスの説いた福音以外にないだろう。すべての人類への愛、暴力に対する非暴力的抵抗を説いた福音を宣教することは、まさに平和主義の宣言に他ならない。わたしたち信者の一人ひとりが、どれだけイエスの教えを内面化しているか、心の底から信じているか、そしてその信仰を人々に力強く、分かりやすく語ることができるか、そのことが問われていると思う。わたしたちキリスト教徒にとって、平和主義の根拠ははっきりしている。必要なのは堅固な信仰と、それを力強く、また分かりやすく人々に伝えるための言葉だと思う。
 その意味で、今回の「やぎぃの会」はわたしにとって、全人類の平和共存を説くイエスの福音をどれだけ日常生活の中の言葉で語れるか、自分自身にとって不可欠な救いだと実感しているか、分かりやすく人に説明することができるか、そのことを改めて考え直す機会になった。さらに考えを深めていきたい。若者たちが真剣に平和について語り合う姿を通して、そのために必要な力を与えられたような気がする。
※写真の解説…板門店の国境線付近に張り巡らされた鉄条網と、翻る韓国国旗。