フォト・エッセイ(38) 姫路城


 昨日はお休みの日だったし天気もよかったので、近所の女子修道会でミサを立てたあと姫路に行ってきた。まだ姫路城を見たことがなかったし、書写山円教寺という大きなお寺があるという話を聞いて興味を感じてもいたからだ。
 姫路城には正直言って驚いた。新幹線の窓から遠くに眺めたことはあったが、間近から見るとまったく印象が違った。入口の橋を渡ったところで、まずその巨大さに圧倒された。天守閣を中心に何重にも張り巡らされた城壁や石垣、そして西の丸まで合わせた姫路城は、わたしが思っていたよりはるかに大きな建造物だった。さらに近づいていくと、白壁の美しさや石垣の力強さに心が惹かれた。白壁や石垣を従えて青空の中に浮かび上がった白亜の天守閣は、まるで天から舞い降りた巨大な鳥のようだった。姫路城の別名は白鷺城だと聞いていたが、そのような名前がついたのも頷ける。
 天守閣のすぐ近くまで行ったとき、しばらくその場にくぎ付けになってしまった。その巨大な存在感に圧倒されて、その場から動けなくなってしまったのだ。天守閣を仰ぎながら、数百年前の日本人たちがこれほどの建造物を作ることができたということや、当時の権力者たちの力の大きさへの驚きなど様々な思いが胸中を去来した。
 この城に住んでいた殿様は、いったいどのような思いでこの天守閣から世界を見渡していたのだろうかとも考えた。大きな石を積み上げて石垣を作り、幾重にも白壁をめぐらした巨大な城砦を頼りに「この城がある限り自分や子どもたちの支配は安泰だ」とでも思っていただろうか。しかし、実際には時代の大きな変化の中でそういうわけにはいかなかった。徳川幕藩体制が瓦解したときこの城もその権威を失い、ただの歴史的建造物になってしまったのだ。飛行機が発明された現代にあっては、このような城は軍事的にもほとんど意味を持たないだろう。
 大きな城を作って安心していた殿様の気持は、なんとなくわかるような気がする。わたしには大きな石を積み上げ、白壁を練って城を作るような力はないが、それでも自分の周りに安心できる城壁をめぐらそうとすることがたびたびあるからだ。その城壁は、ときに社会的名誉だったり、資格だったり、学位だったり、あるいは自分の豊かさを示すような衣類や持ち物だったりする。自分の自由になるものを自分の周りにたくさん積み上げると、なんとなく安心するものだ。そして、自分の力だけで生きていけるような気持になる。
 心の中に生まれてくるたくさんの思い込みも、城壁のようなものだろう。「あれは〜にすぎない」とか、「あれはこうあるべきだ」というような思いこみを積み重ねることで、わたしたちは心の安らぎを感じることができるようだ。わたしにも、世界はこのようなものだという思い込みの城壁の中でぬくぬくと暮らしているようなときがある。
 しかし、殿様の場合と同じで現実はそんなに甘くない。積み上げた名誉は移ろいやすく、また苦労して得た資格も病気や事故などによって一瞬のうちに意味を失うことがあるからだ。凝り固まった思いこみも、現実に直面していく中で簡単に壊されてしまう。
 結局のところ、自分の力やこの世の何かに頼って生きようとすることに大きな間違いがあるのだろう。自分自身を含めたこの世の何ものかに執着している限り、わたしたちは神様に自分を完全にゆだねることができない。城壁が邪魔をしてしまい、神様の愛で自分の心を一杯にすることができない。心の周りに張り巡らされた城壁は、ときに神の愛を跳ね返してしまうことさえある。自分の持ち物のことや思いこみで頭がいっぱいになり、せっかく神様が与えようとしてる目の前の恵みに気づけなくなるのだ。イエスに従っていくためには、築き上げた城壁を壊し、心を神様に向けて一杯に開け放つ必要があるだろう。
 そんなことを考えながら、天守閣の足下で小一時間ほど過ごしただろうか。外人の旅行客に写真を撮ってくれと頼まれて、ようやくその場を離れることができた。







※写真の解説…1〜3枚目、姫路城。4枚目、姫路城の城壁と石垣。