フォト・エッセイ(40) 芋堀り


 昨日、教会学校2年生の子どもたちと一緒に、三木市にある生協の農園まで芋掘りに行ってきた。秋晴れの天候にも恵まれて、とても気持ちのいい芋掘りだった。今回掘った芋は、ゴールデンウィークに子どもたち自身が植えた茎から育ったものだ。
 自分たちが植えた芋がどれだけ育ったのかを見るのが楽しみだったのだろう、子どもたちは車から降りると一目散に畑の方向に駆け出して行った。畑に着くと、子どもたちはリーダーの合図を待って一斉に芋掘りを始めた。土を少しよけると、芋の先端部分がすぐに見え始めた。大きい芋を見つけて夢中で掘り出そうとする子ども、途中であせって芋を折ってしまう子ども、小さい芋しか見つからなくて必死に地面を掘り続ける子どもなど、1人ひとりの子どもが自分なりの芋掘りを楽しんでいる姿を見ているうちに、わたし自身も楽しくなってきた。わたしも彼らくらいの年齢のときに地域の子ども会で芋掘りに行ったことがあるが、彼らを見ていてその時の楽しい思い出も蘇ってきた。
 さつま芋を掘りだすのは本当に楽しい。土の中からどんな芋が出てくるかまったく分からないから、まず掘ること自体が楽しいし、土の中に思いがけず大きな芋を見つけた時の喜びも大きい。あんなに小さくてひょろっとした1本の芋の茎からあんなに大きな芋がたくさん育ったと思えば、何か不思議な感じさえする。帰ってからお母さんに焼いてもらって食べる芋の味は最高だ。掘るところから食べるところまで、芋掘りに行くと全身で大地の恵みを感じ、楽しむことができるような気がする。
 さつま芋の茎は、夏の間にどんどん伸びて葉をつけ、たくさんの光を浴びて養分を造り出す。そして、地面の中に大きな芋をたくさん育てていく。夏のあいだ表から決してうかがい知ることができないが、地面の中で大きく豊かな実りを育んでいるのだ。教会学校や家庭で神様の愛をたくさん浴びている子どもたちの心の中にも、わたしたちが知らない間に大きな愛の実が育っているのだろうか、芋を掘る子どもたちの姿を見ながらふとそんなことを考えた。外見からはよくわからないが、もしかすると彼らも彼らなりにわたしたちの説教の言葉などを真剣に受け止め、心の中に蓄えて実を育てているのかもしれない。いつの日か、その実が掘り出されて彼ら自身の心を満たし、また彼らの周りにいる人々の心の中にある愛への飢えをも満たしていくことがあればいいのだが。




※写真の解説…1枚目、芋畑に向かって一目散に走っていく子どもたち。2枚目、夢中で芋掘りをする子どもたち。3枚目、セイタカアワダチソウの花。