フォト・エッセイ(41) 丹波篠山①


 先日、神戸地区で働く司祭修道者の集いが丹波篠山で行われた。毎月行われている集いだが、いつもは三宮の神戸中央教会に集まる。たまには同じ地区の中にある別の場所でも集まってみようということで、遠足も兼ねて今回は丹波篠山で集まることになった。
 まず三田教会の篠山集会所に集まって簡単なミーティングをした。そのあと、さわやかな秋風が吹き抜ける篠山の街を散策した。雲ひとつない秋晴れの好天にもめぐまれ、とても気持ちのいい遠足になった。歩きながらたわいのない会話をかわしたり一緒に食事したりすることで、同じ地区で働く司祭修道者たちのきずなも強まったような気がする。
 篠山は本当に魅力的な土地だ。周囲をぐるっと山に囲まれた大きな盆地一面に畑や田圃が広がり、ところどころに昔ながらの農家が点在している。その特徴を言い表すのに「のどか」とか、「のんびり」という言葉がこれほどよく当てはまる場所もめずらしいだろう。豊かな大地の実りをもたらすこの土地に、大昔から人が住みついていたというのは当然のような気がする。街の中心にはお城の跡や、武家屋敷の街並みが保存されている。
 のんびりした時間が流れる篠山の街を散策し、写真を撮りながら、あらためて自分が普段どれだけ慌ただしい生活を送っているかを感じた。時間には大きくいって二つ流れ方があるように思う。一つは、自分で時間を支配し、限られた時間の中でできるだけ多くのことをしようと思っているときに流れる時間だ。そんなときのわたしは次から次にたくさんの仕事をこなしていく。だが、やってもやっても終わることがないので次第に疲れがたまってくる。そして、周囲の人に愚痴を言ったりするようになる。実はそんなとき、わたしは自分で自分を忙しくしているだけのことが多い。本当はそんなに急いでいろいろなことをやる必要はないのに、仕事中毒のようになって次々に仕事を入れていってしまうのだ。まるで空白の時間を恐れているかのように。たぶん、そんなときには心のどこかに満たされない部分があって、それを仕事で埋めようとしているのだと思う。そんなとき一つひとつの仕事は、空白を埋めるための材料としての意味しか持っていない。
 もう一つは、時間の流れに身を委ね、感性の赴くままに必要なことだけをしているときに流れる時間だ。そんなときのわたしは、ゆったりとした気持ちで一つひとつの仕事を楽しむことができる。神様が導く時の流れに身を委ねて、一つひとつの出来事を味わい、感謝することができる。心は神様への感謝で満たされているので、空白を埋めようとして焦る必要もない。
 篠山の街を歩いている時には、後者の時間が流れていたような気がする。でも、教会で働いている今はどうだろうか。自分の周りに今どんな時間が流れているか、いつも気をつけていたいものだ。




※写真の解説…1枚目、篠山の街を散策する神父さんやシスターたち。2枚目、篠山城からの眺め。3枚目、篠山の街並み。