《今日の福音》ルカ10:38-42
この箇所を素直に読めば、イエスは行動ばかりに気を取られているマルタを叱っているように思えます。ですが、せっかくイエスのために甲斐甲斐しく働いているマルタをまったくの悪者にしてしまうのもかわいそうです。そこで、この箇所の解釈を巡っては、昔から意見の対立があります。
一つ目の解釈は、マルタが祈りを忘れて行動主義に陥っていることをイエスが批判したと解釈する素直な解釈です。マリアのように、座ってイエスに耳を傾けることがなにより大切だということになります。
二つめの解釈は、イエスはマルタに味方していたと考えます。イエスはマルタの気持ちがよく分かっており、マルタの意見に賛成していましたが、それでもマルタに、マリアはまだ年少で祈りの深みが分かっていないからまず座って私の言葉を聞く必要があるんだよと語りかけたのだと解釈するのです。この解釈では、真の祈りは必ず行動につながるとイエスも考えていたということになります。
わたし自身はこの箇所を読んでいて、おそらくイエスはマルタに同情したのではないかと思いました。「多くのことで思い悩んでいる」マルタに深く同情したイエスは、「さあ、無理をして働かないで、わたしのそばに座りなさい」と語りかけたのではないかと思えたからです。皆さんは、この箇所を読んでどう感じられたでしょうか。
《神の母マリア》
今月は、聖母マリアに取り次ぎを願う祈りであるロザリオの月です。マリア様に対する崇敬は、カトリック教会の大きな特徴だと言えるでしょう。キリスト教の他の教派の人たちの中には、カトリックはマリア教だ、偶像崇拝だと言ってカトリックを批判する人さえいます。なぜカトリック教会では、それほどまでにマリア様を大切にするのでしょうか。
(ちなみに、カトリック教会では、マリア様には「崇拝」という言葉は使いませんので注意してください。人間であるマリア様はあくまで「崇敬」の対象であって、「崇拝」されるのは三位一体の神様だけです。)
1.聖書に描かれたマリア
まず、聖書でマリアがどのように描かれているのかを確認してみましょう。
(1)旧約聖書
①創世記3:14-15…こんなところにマリアが出てくるのかと思うかもしれませんが、この箇所の「女の子孫」という言葉の中にはマリアとイエスが含まれていると考えられています。そのように読むと、この箇所はエヴァの子孫であるマリアの子イエスが、悪魔である蛇の頭を踏み砕くという意味になります。それゆえ、伝統的にこの箇所はイエスが悪に打ち勝つことを予言した文書と理解され、「原福音」と呼ばれてきました。
②イザヤ7:14…伝統的に、この箇所の「おとめ」はマリアを指していると解釈されています。インマヌエル預言と呼ばれるこの箇所は、のちにマタイ福音書記者によって引用され、マリアが処女で受胎したことの根拠になりました。
(2)新約聖書
①マルコ福音書…マルコ福音書では、マリアやイエスの「兄弟」たちがイエスを止めようとする場面や、郷里でイエスが敬われないという場面でのみマリアが出てきます。
②マタイ福音書…ユダヤ教徒たちを読者に想定して書かれたマタイ福音書では、イエスの誕生が旧約の約束の実現として描かれます。そうすることで、ユダヤ教徒たちを納得させようとしたのでしょう。1章23節で先ほど紹介したイザヤ預言書を引用する箇所がその最も代表的な例です。全体として見ると、家長制の中で男性が優位に立っていたユダヤ教文化の影響を受け、マリアではなくヨセフ中心の誕生物語が描かれています。
③ルカ福音書…マリアの姿が最もよく描かれているのがルカ福音書です。1章38節の言葉や、1章47節以下のマリアの賛歌(マグニフィカト)の表現などからは、マリアがユダヤの神をひたすら信じている敬虔なユダヤ教徒であったことがわかります。
④ヨハネ福音書…ヨハネ福音書では、他の福音書で触れられていないカナの婚宴の話(2:1以下)や、マリアを弟子の母と宣言するイエスの言葉が出てきます(19:26-27)。
2.カトリックの信仰
では、カトリック教会の伝統の中で、マリアはどのような方として崇敬されてきたのでしょうか。マリアへの崇敬を表す5つの言葉をキーワードにして、確認していきたいと思います。
(1)「神の母」(祭日・1月1日)
マリアは、伝統的に「神の母」と呼ばれています。この言葉を聞いた時、人間にすぎないマリアが「神の母」だなんてことがありうるのかという疑問を感じる人もいるでしょう。それはもっともな疑問で、その疑問に答えるために一つの公会議(エフェソ公会議、5世紀)が開かれたくらいです。
この称号の根拠になるのは、「イエス・キリストは完全な人間であると同時に完全な神であった」というカルケドン公会議が宣言した信仰、前期にお話しした「位格的結合」の信仰です。イエスが完全な神であったならば、イエスの母であるマリアは当然「神の母」と呼ぶことができます。エフェソ公会議は、イエスが完全な神であったという信仰を前提としてマリアを「神の母」と宣言しました。
(2)「乙女」
マリアは、乙女でありながら聖霊によって受胎したという信仰が「乙女マリア」という呼び方の土台にあります。イザヤ書7章の言葉などがその根拠であることは、先にふれました。
後にこの信仰は、マリアは創世記3章の出産の痛みからも解放され、イエスの出産によっても処女性を失わなかったという信仰や、イエスの出産後もヨセフとの交わりを持たず、処女であり続けたという信仰に発展していきました。この信仰ゆえに、カトリック教会では福音書の中に出てくる「イエスの兄弟」という言葉は「イエスのいとこ」を意味していると解釈します。
マリアが終生乙女であったという信仰は、マリアが完全に罪から解放された女性だったことを意味しています。マリアは、生殖行為に伴う罪の汚れから完全に解放されていた。そのマリアから新しい救いの歴史が始まった、とカトリック教会は信じてきたのです。
(3)「教会の母」
先ほどご紹介したヨハネ福音書19章のイエスの言葉は、カトリック教会の伝統の中で、イエスがマリアをすべてのキリスト教徒の母として宣言した言葉として理解されてきました。この言葉ゆえに、マリアは「教会の母」と呼ばれます。この言葉には、神にすべてを委ねたマリアの信仰こそ、教会に集うすべてのカトリック信者が見習うべき模範だという意味も込められています。
(4)「無原罪の御宿り」(祭日・12月8日)
「無原罪の御宿り」と次に紹介する「聖母の被昇天」の教えは、19世紀以後、教皇によって不可謬宣言(前期にお話しした、絶対に間違っていないとされる宣言)された教義です。
「無原罪の御宿り」の教えは4世紀頃から教会の中で広く信じられてきましたが、1854年、ピオ9世によって正式に教義宣言されました。
①内容…マリアは、神様の特別な恩恵によって原罪の汚れに染まらずに生れたということです。
前期にお話ししましたが、カトリック教会の伝統的な信仰によれば、全ての人間は生まれながらに原罪を背負っているというのが原則です。しかし、マリアは神様の特別な恵みによって例外的に生殖行為に伴う罪から守られ、原罪なく母の胎内に宿ったとするのが「無原罪の御宿り」の信仰です。
イエスがマリアに無原罪で宿ったことだと勘違いしている人がときどきいますが、そうではありません。聖霊によって宿ったイエスには、当然原罪がなかったと考えられます。
②根拠
鄯.確かに原罪は全人類に遺伝するもので、例外はないという批判に対して⇒神様にできないことは何もないので、神様が特別の恵みによってマリアを原罪から守ったとしてもおかしくない。
鄱.マリアに原罪がなかったとすれば、キリストによって救われる必要がなかったことになるとの批判に対して⇒マリアは、キリストによる救いの業にあらかじめ与ったのだと考えればよい。
鄴.神様は、「神の母」、「教会の母」とするためにマリアを受胎の瞬間においても罪から守ったと考えられる。救いの歴史におけるマリアの特別な役割を考えれば、マリアにはいかなる意味でも罪がなかったはず。
③「原義」との違い…アダムとエヴァも原罪なく生まれてきました。罪に陥る前のアダムとエヴァの状態を「原義」状態と呼びます。原義とマリアの無原罪の違いは、キリストの救いによるものであることと、決して堕落することがないということです。
(5)「被昇天」(祭日・8月15日)
聖母の被昇天は、6世紀頃から教会の中で広く信じられてきましたが、1950年、教皇ピオ12世によって教義宣言されました。
①内容…マリアは、地上での生涯を完結した後、体も魂も天の栄光に挙げられたということです。神であるイエスが復活後ご自分の力で昇天したのに対し、マリアは神によって天に挙げられましたから、その意味で「被昇天」という言葉が使われています。
②根拠
鄯.イエスの昇天によって人間の肉体が天の栄光に挙げられる可能性はすでに開かれていた。それゆえ、マリアの肉体が天に挙げられた可能性は否定できない。
鄱.マリアは生前から罪の汚れに一切染まらず、天上的な至福を生きていた。そんなマリアの肉体が死後、天に挙げられたのは自然。
③現代的な意義(K.ラーナーによる)
鄯.マリアが天に挙げられたことで、人間の肉体が天の栄光に挙げられるに値することが確認された。肉体は、それ自体としては汚れたものでないことが明らかになった。
鄱.「神の御子」であるイエス・キリストだけでなく、私たちと同じ全くの人間だったマリアにおいても肉体と魂の救いが実現したことは、全人類に希望を与えてくれる。
3.まとめ
マリアについての信仰は、現代人にとって理解しにくい部分が多いかもしれません。なぜ乙女であることがそれほど大切にされるのか、人間の肉体が空中に浮かぶなんてことがあるのかなど、疑問はいくつも湧いてくるでしょう。
知的に理解することは難しいかもしれませんが、わたしの実感としてマリアに対する崇敬はカトリック教会の最も大切な宝の一つだと思います。無心にロザリオを祈ったり、聖母に取り次ぎを願ったりするときに与えられる恵みは、筆舌に尽くし難いものがあります。
ですから、理屈に合わないからと言って、マリア信仰を投げ出すのはあまりにもったいないと思います。結局のところ、神様のなさることは人間の理解をはるかに超えているのですから、教会に伝えられた大切な信仰をまず受け入れることから始めたいものです。
《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・吉山登、『マリア』、清水書院、1998年。
・ペリカン、ヤロスラフ、『聖母マリア』、青土社、1998年。