バイブル・エッセイ(24) マルタとイエス


 今回のバイブル・エッセイは、10月7日、「神の愛の宣教者会」名古屋修道院で立てた御ミサの中での説教に基づいています。
 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 先日、わたしの初ミサの説教の中でも柳田神父様が話されましたが、マザー・テレサの有名な言葉に「イエスを愛する喜びを、いつも心に持ち続けなさい。そして、その喜びをあなたが出会うすべての人と分かち合いなさい」というものがあります。まず祈りの中でイエスと出会い、イエスから愛される喜び、そして罪深い自分をありのままにすべて受け入れて下さったイエスを愛する喜びを十分に味わいなさい、ということです。もしその喜びがあるならば、わたしたちが何もしなかったとしてもその喜びはわたしたちが出会うすべての人に伝わっていくでしょう。逆にもしその喜びがなかったとしたら、わたしたちがどれほど頑張って神の愛を宣教しても、出会う人々に信仰の喜びを伝えることはできないでしょう。マザーはこの言葉で、そのことをおっしゃっているのだと思います。
 マザーの言葉に、「神を愛する喜びは伝染します」というものがありますが、それもこの言葉と同じことを言っているのでしょう。わたしたちが心の底から神の愛を実感し、喜んでいれば、神の愛はわたしたちの心から人々の心に自然に染み出し、伝わっていく、逆にわたしたちの心に神への愛や喜びがなければ何も伝えることはできない、それが福音宣教の基本だということです。
 今日の福音の中で、イエスは「必要なことは一つだけである」とおっしゃいました。わたしたちにとって何よりも必要なのは、神様から愛されていることを実感し、神様を愛する喜びに満たされることでしょう。そこからすべてが始まるのです。マルタの刺々しい言葉を聞いたイエスは、マルタの心に喜びがないことに気づきました。マルタの心には、喜びではなくむしろ悩みがあり、心が乱れていることに気づいたのです。そこでイエスはマルタを憐み「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」、わたしはそれをよく分かっているよ、と優しい言葉をかけたのでしょう。そして、心を落ち着けて何が一番大切なことなのかを思い出しなさい、という気持ちを込めて「マリアはよい方を選んだ」とおっしゃったのだろうと思います。イエスはきっと、「まずわたしのもとに来て、心の底から平安と喜びを感じなさい、あとのことはそれからでもいいよ」とマルタに言いたかったのでしょう。
 「神の愛の宣教者」となるためには、まずなによりも神様から愛される喜び、神様を愛する喜びに満たされていることが必要だ、それがなければわたしたちは神様のために何もよいことをすることができない、そのことを心に深く刻みたいと思います。どうか、神様を心の底から愛する喜びがわたしたちに与えられますように。
※写真の解説…教会の2階から見上げた秋の空。わたしのカメラは、レンズに偏光フィルターをかけてあるので太陽の写真を撮ることができます。皆さんはどうぞ真似しないでください。