入門講座(15) 秘跡とは何か?

《今日の福音》ルカ11:37-41
 イエスは、律法に従って食事の前に手を洗うことをしませんでした。ファリサイ派の人の食事に招かれていながら、不可解な行動です。イエスは、なぜこのような行動に出たのでしょう。一つ考えられる可能性は、ファリサイ派の人たちが、食前に手を洗わないことで貧しい人たちを見下しているのをイエスは知っていた。そこで、あえてファリサイ派の人たちの前で手を洗わず、彼らがどう反応するかを試したということです。
 案の定、ファリサイ派の人たちはイエスの行動を不審に思い、イエスに対してよくない考えを抱きました。その時をとらえて、イエスファリサイ派の人々を非難し始めます。律法は守るけれども、心の内側は人々への愛や喜びではなく強欲や悪意に満たされたファリサイ派の人たちは、愚かであり、不幸だというのです。神様の前で大切なことは、形式的に律法を守ることではなく、神への感謝や人々への愛に動かされて行動することでしょう。ルカは「器の中にある物を人に施せ」という言葉を加えることで、愛の実践の重要性を強調しています。

秘跡とは何か?》
 これから7回にわたって秘跡の話をしていきます。わたしたちが教会の中で一般に秘跡と呼んでいるのは、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階という7つの儀礼です。これらの秘跡の一つひとつについて勉強する前に、今回は秘跡とは一体何なのか、イエスや教会が秘跡であるということと、これらの7つの秘跡はどう関係するのかなどについて考えてみたいと思います。

1.定義
 秘跡という言葉を簡潔に定義すれば、「①見えない恩恵の賜物が、②経験可能なしるしを通して、③確実に与えられること」と言えます。
(1)「見えない恩恵の賜物が」
 与えられるのは神の恩恵すなわち、愛、希望、勇気、生きる力などで、それは本来、見ることも触ることもできません。
(2)「経験可能なしるしを通して」
 神様は、人間に御自身の恩恵を余すところなく与えるために、まずイエス・キリストという目に見え、耳で聞こえ、手で触ることができる完全な「しるし」をこの世界にお送りになりました。
さらに神様は、人間がしるしを求めるものであり、またしるしによって強められるものであることを知っておられるので、イエス・キリストにおいて人間のためにいくつかの目に見えるしるしを制定されました。仏教に「心は形を求め、形は心を進める」という言葉があるそうですが、神様はそのような人間の心理をよく御存じなのです。
(3)「確実に与えられること」
 秘跡を正しく受けるならば、恩恵は確実に与えられます。犠牲祭儀などの「旧約の秘跡」では恩恵の授与は確実なものではありませんでしたが、イエス・キリストによって制定された秘跡からはいつでも確実に恩恵を受けることができるのです。

2.原秘跡としてのイエス
 このような秘跡の定義に最もよく当てはまるのは、言うまでもなくイエス・キリスト御自身です。イエスにおいてのみ、一度だけ神の恩恵が人類に余すところなく完全に示されたからです。神のしるしである人間イエスは、同時に神御自身でもありますから、非常に特別なしるしだと言えます。このような特別なしるしのことを、カール・ラーナーは「実在的シンボル」と呼んでいます。
 イエスこそが秘跡中の秘跡であることを示すために、イエス秘跡と呼ぶ場合には「原秘跡」という特別な言葉を使います。「原」という言葉には、他のすべての秘跡がイエスにおいて示された神の恩恵に由来しているという意味が込められています。イエスが制定したすべての秘跡は、イエスにおいて完全に示された神の恩恵を人間に与えるものなのです。
ですから、イエスの制定による教会の諸秘跡は、「イエス・キリストにおいて示された恩恵の賜物が、現在でも経験可能なしるしを通して、確実に与えられること」だと言えるでしょう。

3.根本秘跡としての教会
 イエスが人間にとって目に見え、手で触れられるしるしだったのは、御昇天までのことだと言えるでしょう。人間の肉体をもったイエスは、御昇天によってこの世から天へと挙げられたからです。もちろん復活したイエスはいつでもわたしたちと共にいてくださいますが、残念ながら御昇天以降、人間の肉体をもってわたしたちの前に現れてくださることはありません。
 そこで御昇天以後、イエスの肉体に代わって神の恩恵の賜物の目に見えるしるしになるために、イエスによって設立されたのが教会です。その意味で、教会は「キリストの体」だと呼ばれます(エフェソ1:23、コロサイ1:24等)。以前にもお話ししましたが、教会はこの世界にあって、イエス・キリストが愛、共感、友情、優しさなどを人間に示すための顔、仕草、声、手足などになっていかなければならないのです。このように特別な使命を与えられたしるしである教会のことを、他の諸秘跡と区別して「根本秘跡」と呼ぶことがあります。

4.7つの秘跡
(1)秘跡の数
 カトリック教会では、イエス・キリストが制定した秘跡は7つあると考えています。洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階の7つです。16世紀に行われたトリエント公会議でそのことが確認されました。
(2)秘跡の種類
 教会の中で大切に守られている秘跡には次の3つの種類があります。
 まず、「入信の秘跡」と呼ばれる、洗礼、堅信、聖体です。これらの秘跡は、3つが1つとなってキリスト教入信プロセスの核となります。次に、「いやしの秘跡」と呼ばれる、ゆるしの秘跡、病者の塗油があります。これらは人間の心身の傷をいやす秘跡です。最後に、「交わりの秘跡」と呼ばれる結婚、叙階があります。結婚は夫婦の交わりを、叙階は教会と受階者の交わりを確実なものにするからです。
(3)準秘跡
 教会には、これら7つの秘跡の他に準秘跡とよばれるしるしがいくつかあります。準秘跡は、秘跡と違って神の恩恵を与えるものではありませんが、神の恩恵を受けるのにふさわしいようにわたしたちの心を準備してくれます。具体的には、さまざまな場面で行われる祝福、自分の生涯や物などを神に捧げることを約束する奉献(修道誓願や教会の献堂式など)、誰かにとりついた悪魔を追い払う悪魔払いなどが準秘跡に当たります。
(4)秘跡
 ある意味で、この世界に存在するすべてのものは「神の恩恵の経験可能なしるし」になりえます。わたしたちは、誰かとの出会ったときに、あるいは美しい景色を見たときに、音楽を聴いたり絵を見たりしたときに、それらを通して神の恩恵を感じることがあるからです。その意味で、神様が創造されたこの世界のすべてのものは、秘跡とは呼べないまでも「秘跡性」を持ちうると言えます。

5.秘跡の効力
 「わたしは○○神父の洗礼を受けた」というような言葉を聞くことがあります。気持ちとしてはわかりますが、これは正しい表現とは言えません。なぜなら、洗礼の効果は儀式を執行した○○神父の人徳や人柄によるものではなく、儀式自体によって発生するからです。洗礼の儀式が正しい手順で正しい言葉を使って行われていれば、誰が洗礼を授けたとしても同じ洗礼ですから、「○○神父の洗礼」という言い方はおかしいのです。
 秘跡の効果が、儀式を執り行った人の人徳や人柄によって発生するという考え方を人効論と呼び、正しい儀式自体によって発生するという考え方を事効論と呼びます。カトリック教会は、伝統的に事効論の立場をとっています。
もし人効論に立つと、洗礼を授けてくれた神父さんがあとから大悪人であることがわかった場合、その洗礼は無効ということになって困ったことになります。御ミサに出るにしても、御ミサを立てている神父さんが善人か悪人かは外見から判断できません。ですから、もし人効論に立つと、安心して御ミサに出ることができなくなります。事効論で本当によかったと思います。

《参考文献》
・ラーナー、カール、『キリスト教とは何か』、百瀬文晃訳、エンデルレ書店、1981年。
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。