フォト・エッセイ(46) コスモス②


 東京への初ミサ旅行の2日目、空いている時間があったので昭和記念公園にコスモスを見に行ってきた。園内には3か所大きなコスモス畑があり、時期をずらして長い期間コスモスを楽しむことができるようになっている。今回、残念ながら一番広い「コスモスの丘」は開花が終わってしまっていたのだが、「みんなの原っぱ」のコスモス畑がちょうど満開だった。
 ちょうど前の晩に上石神井修道院で初ミサを立てたばかりのときだった。わたしとしてはできる限りのことをしたつもりだったのだが、御ミサが終わった後に先輩の神父さま方からいくつかの厳しい指摘があった。「朗読が独りよがりになっている」、「身振りが大袈裟すぎる」、「声の出し方がおかしい」等いちいちもっともな指摘ではあったが、自分なりに精いっぱいやったつもりだったのでややへこんでしまった。それで、コスモスでも見たらまた元気になるだろうと思って昭和記念公園に行くことにしたのだ。
 御ミサを立てるのは本当に難しい。自分では深く祈れたと思っていても、「独りよがりで気持ち悪い」と言われることがある。時間をかけてゆっくりと神様との出会いのときを過ごせたと思っていると、「長すぎて耐えられない」と言われることがある。よかれと思ってやっても、裏目に出てしまうことが多い。どうやって御ミサを立てたらいいのか、本当に悩んでしまう。どうしたら、祈りに満ちた聖なるミサを立てられるのだろうか。
 そんなことを考えながら、秋風に揺れるコスモスをじっと見ていた。まず、人の言うことに一喜一憂する必要はないだろう。すべての意見が神の御旨にかなっているわけではないだろうから、わたしなりに何が神様の御旨なのかを祈りの中で識別していく必要がある。そして、聞くべき意見は謙虚に聞きいれ、御ミサの立て方を改善していく必要があるだろう。
 だが、どうもそれだけでは足りないような気がする。どれほど技術的な問題を解決していったとしても、果たしてそれだけで「聖なる御ミサ」になるだろうか。高齢のためにはっきりした声が出せなかったり、宣教師で日本語が不十分だったりしても、聖霊の息吹きに満たされた御ミサを立ててくださる神父様はたくさんいらっしゃる。わたしは、自分の信仰の浅さを技術だけでごまかそうとしているのではないだろうか。コスモスを見ながらいろいろ考えているうちに、「どうもそれだなぁ」と思った。
 身振りや発声法など、技術的なことで改善できる点は改善していくべきだろう。だが、よい御ミサを立てるために一番必要なのは、日々の生活の中で深くイエス・キリストと出会っていることだろうと思う。普段イエスと関係のないような生活をしていて、いきなり御ミサのときにだけイエスと出会えるはずがない。御ミサの中でのイエスとの出会いを頂点として、自分の生活を整えていく必要がある。わたしだけでなく御ミサに参加するすべての人がそのようなつもりで日々を過ごし、御ミサの中で心を合わせて深く祈るならば、きっとそこに聖霊の風が吹くのだろう。
 秋風に揺れるコスモスのように、聖霊の風に吹かれながら自然体で御ミサを立てられるようになりたいものだ。 







※写真の解説…昭和記念公園のコスモス。