フォト・エッセイ(47) 高野山


 28日から29日にかけて、和歌山県橋本市の温泉で「大阪大司教区若手司祭の会」があった。大阪教区で働く若い司祭の交流と親睦を深めるための集まりで、20人余りの司祭が参加した。1日目の晩は懇親会があり、夜遅くまでお酒を飲みながらいろいろな話をすることができた。若手といっても叙階から20年以内の司祭という基準なのでベテランの司祭たちも混じっており、深く考えさせられたり、気づかされたりするような話も多かった。2日目は、数台の車に分乗し、高野山を見学して帰ってきた。
 わたしが話していたグループで話題になったのは、どうしたら御ミサが持っている力を信者さんたちに伝えられるのかということだった。御ミサの式文、とりわけ奉献文はそれ自体として本当に力強い救いのメッセージを含んでいる。しかし、残念ながらその力がなかなか信者さんたちに伝わりにくいという感じがする。説教のよしあしということが話題になるのは仕方がないにしても、御ミサの頂点は奉献文と聖変化であって、決して説教ではない。説教は、感謝の祭儀の中でイエス・キリストがわたしたちの目の前に御聖体という形で姿を現わしてくださる前の準備にすぎないのだ。どうしたら、奉献文の一言ひとことが救いの力を持って信者さんたちの心に沁みこむような御ミサが実現できるのか。もしそれが実現すれば、教会は明日からでも変わり始めるだろう。そんなことを話していた。
 信者さんたちが御ミサを退屈に感じたり、義務で出席したりするという気分もよくわかる。なぜなら、わたし自身、叙階される前はそういう気分で御ミサに出ることが多かったからだ。特に毎朝の御ミサなどは、早く終わってくれないかなぁ、朝一番の授業の準備がまだ終わっていないんだけれどなどと考えながら与ることがたびたびあった。御ミサの構造自体よくわかっていなかったし、毎日違う叙唱が唱えられていることや祈願文に深い意味が込められていることなど、ほとんど気づいていなかったと言っていい。奉献文の意味を一言ひとこと味わうことなど、主日の御ミサでもなかなかできなかったように思う。
 だから、問題の難しさは身に沁みてよくわかる。まず、司祭が深い祈りの中で丁寧に御ミサを立てるということが大前提だろう。御ミサの中でイエス・キリストが現れるのを邪魔するような振る舞いや言動があってはならない。そして、やはり信者さんたち自身が御ミサに対する理解を深め、祈りの中で式文の一言ひとことを丁寧に味わいながら御ミサに参加するということも必要だろうと思う。そもそも御ミサの構造は、司祭と会衆が対話することで成り立っている。式文を通して両者の信仰が響き合い、祈りが天にまで届いたときに、聖霊の恵みが御ミサ全体を豊かに満たしていくのだろう。
 どうもこれは司祭だけで集まって話し合っていても仕方がない問題のようだ。まず、信徒と司祭が御ミサについて普段感じていることを忌憚なく話し合えるような場が必要だと思う。勉強会や講演会など、典礼について理解を深めるための場も必要だろう。そのような努力を通じて会衆の心と司祭の心が祈りの中で一つになったとき、御ミサはその潜在的に秘めている力をすべて解放し、世界を根底から変えていくのだと思う。御ミサには、そのくらいの力があるとわたしは信じている。







※写真の解説…1枚目、高野山の紅葉。2枚目、高野山金剛峯寺。3枚目、色づき始めたモミジ。4枚目、高野山の参道。