フォト・エッセイ(50) 六甲山から有馬へ②


 紅葉に限らず、わたしは風景からの呼びかけを感じたときにシャッターを押すようにしている。カメラを持って山道や公園を歩いていると、ときどき眼がある一点で釘づけになることがある。「なんだろう、あれは」と思ってその風景から眼が離せなくなるのだ。見ているうちに心がその風景と共振し始めたら、それはもう風景からの呼びかけだ。わたしは迷わずシャッターを押し始める。近づき、角度を変え、光の当たり具合を確認し、フィルターや露出を調整しながら、風景の発するメッセージを一つも逃さないよう丹念にシャッターを押し続ける。
 風景が発するメッセージは、眼が眩むほどの美しさだったり、吸い込まれてしまいそうな雄大さだったり、心が癒されるような心地よさだったり、重苦しさを吹き飛ばすようなさわやかさだったり、そのときによってずいぶん異なる。今回、紅葉の写真を撮りながら感じたのは、全てを忘れて引き込まれてしまいそうな美しさや心の傷をいやすような暖かさだった。いずれにしても、写真を撮っているときわたしはその風景の中に完全に引き込まれ、その風景と一つになっている。
 神様はわたしに、風景を通して喜びや癒し、生きる力など、そのときわたしが必要としているものを惜しみなく与えてくださる。呼びかけてくるすべての風景は、わたしにとって神様からのメッセージであり、神様の愛を目に見えるしるしによって表した「秘跡」だと思う。地球にあるすべてのものを作られたのは神様だから、すべての被造物には神様のいのちが宿っている。神様は、すべての被造物を通して語りかけている。問題は、わたしにその声を聞き分けられるくらい研ぎ澄まされた魂があるかどうかだ。
 わたしの友人の神学生も写真が趣味なのだが、彼の写真を見るといつも驚かされる。わたしがまったく見落としているような風景の細部に、驚くほどの輝きや美しさを見つけ出し、写し取っているからだ。それはときに、乱雑に散らばった椅子に夕日が当たって作り出した影だったり、トイレの芳香剤を通った光が作り出したプリズムだったり、クモの巣についた水滴だったりする。彼の写真を見ると、この世界に神様の呼びかけでないものなど存在しないのだなと思わされる。どんなに小さく、みすぼらしいものであっても、天上的な美しさを作り出すことができるのだということを彼の写真は教えてくれる。すべてのものを受け入れ、愛おしむ彼の性格が、そのまま写真に反映しているかのようにも感じる。彼は来年叙階されるが、きっとすばらしい司祭になるだろう。わたしもいつか、あんな写真が撮れるようになればいいのだが。




※写真の解説…1枚目、瑞宝寺公園のモミジ。2枚目、3枚目、有馬ケーブルの駅の近くで見つけたモミジ。