フォト・エッセイ(51) 六甲山から有馬へ③

《お知らせ》11月8日から9日まで、青年会の練成会に参加するため六甲山YMCAに行ってきます。

 有馬へ向かう道を歩きながら、朝のミサで読まれたパウロの言葉を思い出していた。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切のことを損失と見なしています」(フィリピ3:8)という言葉だ。
 当時のユダヤ教世界では、パウロが受けた教育やパウロの出身部族、信仰に対する熱意などは誇るに値するものだった。学歴や家柄、能力などで人間の優劣を判断する人間世界の価値観から見れば、パウロは当時の社会でまさに「勝ち組」に属していたのだ。しかし、パウロはそれら一切のことを誇らないばかりか、かえって自分にとって損失だという。これは、とても考えさせられる言葉だ。
 地位、財産、家柄、学歴、能力などを比較して、それで人間の優劣を決めるような価値観の中に生きていると、ろくなことなことはない。もし優れていると評価されれば思いあがって傲慢になるし、もし劣っていると評価されれば自分には生きている価値がないと思って苦しむことになる。そもそも人間の価値は、その人が持っているものや能力などで決まるものではないし、優劣がつくようなものでもないはずだ。しかし、それでも自分の価値を持っているものや能力で判断して安心したり苦しんだりしたがるのが人間のさがであり、愚かさなのだろう。
 そのようなことで喜んだり悲しんだりするために時間と労力を費やすのは、すべて損失だとパウロは考えたようだ。イエスは、どんな人間でも同じようにありのままに受け入れ、愛してくださる。その温かさに包まれ、慰められ、力づけられ、心の底から安らぐ喜びに比べられるものはこの世に何も存在しない。もし世間的な評価で優れていたとしても、そのことで思いあがって自分自身を頼りにし、イエスから遠ざかるならばもったいないことだ。世間的に低く評価されたことで、自分で自分を無価値なものとみなし、自暴自棄になってイエスから遠ざかるのも同じようにもったいない。
 さて、今の自分はどうだろうか。人間からの評価に頼って自分が何者であるかのように思いあがり、イエスから遠ざかっていないだろうか。あるいは逆に、悪口を言われたことで自分を蔑み、イエスから遠ざかっていないだろうか。そんなことを考えながら山道を歩いていた。
 せっかく幸せがすぐ近くにあるのに、自分で自分の心を閉ざして不幸になるのは愚かなことだ。自分のことばかり考えて喜んだり苦しんだりするための時間と労力は本当にもったいない。それは、パウロの言うとおり「損失」に違いないと思う。いつでもイエスの前で自分の小ささ、無力さを認め、イエスの愛に心を満たされていたいものだ。




※写真の解説…1枚目、有馬ケーブル近くのモミジ。2枚目、紅葉谷の木々。3枚目、瑞宝寺公園のモミジ。