フォト・エッセイ(52) 加西の石仏群


 今週の月曜日、信者さんたちのグループ20人ほどと一緒に、加西の石仏群を見に行ってきた。新聞などでもときどき取り上げられているそうだが、加西で発見された江戸時代の石仏の一部にキリスト教の影響が見られるという。その石仏を見学に行ったのだ。石仏とキリスト教との関係を証明する確たる証拠はないのだが、江戸幕府からキリスト教禁止令が出る前はこの地域に500人以上のキリスト教徒がいたとの報告が宣教師によって書かれているそうだ。そのキリスト教徒たちの子孫が、禁教令の下でもキリスト教信仰を持ち続け、石仏に彼らの思いを託したということは十分に考えられる。
 行ってみると、確かにいくつかの地蔵の背面にかなり大きな十字架の浮き彫りがしてあった。徳川幕府と寺社によって厳しくキリスト教が取り締まられていた時代に、地蔵の背中に大きくはっきりとイエスの十字架を刻んだのだとすれば、驚くべき大胆さと言わざるを得ない。この十字の文様を、はたしてイエスの十字架と見るべきなのか、それとも服の模様と見るべきなのか。幕府の目から地蔵を隠し通した「隠れキリシタン」たちが、はたして存在したのかどうか。歴史への興味は尽きない。
 それはともかくとして、今回の遠足でわたしの心に一番強く印象に残ったのは、江戸時代の農民たちの素朴な信仰心だ。簡素な作りの石仏がひなびた寺の境内に並べてあるのを次々と見て歩くうちに、「一体だれがどんな気持ちでこんな仏像を作ったのだろう。そして、だれがどんな気持ちでこの仏像を拝んだのだろう」という思いがわたしの心に湧き上がってきた。現代のような医療も福祉もない農村で、ただ土と向かい合いながら生きていた農民たちが、これらの石仏に込めた願いとはなんだったのだろう。寺に集まった農民たちは、石仏を前にして何を祈っていたのだろう。そう思いながら石仏を見ているうちに、それを作った人の顔が思い浮かんでくるようだった。寺の境内に集まる農民たちの息遣いや気配が感じられたような気もした。
 おそらく人々は、疫病や飢饉などがいつ起こってもおかしくない不安定さの中で、そして抜け出せる可能性のない貧しさや身分的制約の中で、石仏を通して人間を越えた世界に希望を託したのだろう。人間の力を越えた偉大な力を持つ神仏により頼み、それを心の支えとして日々の労働に向かっていったのだろう。作りが素朴であるだけに、その思いが石仏からはっきりと力強く伝わってくるような気がして、見ているうちに胸を打たれた。
 彼らがイエスの教えを知っていたにせよ、知らなかったにせよ、イエスが彼らと共におられたことは間違いないだろう。イエスは時代と場所を越え、すべての人間の苦しみや孤独に寄り添われる方だ。救いを求めて上げられた魂の叫びに答えないような方ではない。石仏に込められた農民たちの祈りは、間違いなくイエスに届いたはずだ。そう思ってみると、石仏たちの顔はかすかに微笑んでいるようにも見える。







※写真の解説…1枚目、普明寺の石仏。2枚目、大日寺の石仏の背中に彫られた文様。十字架ではないかとの説がある。3枚目、普明寺のモミジ。4枚目、加西の五百羅漢。