フォト・エッセイ(55) 森林植物園へ②


 高山植物園を出る頃までは晴れていたのだが、歩いているうちにだんだん雲が多くなってきた。写真を撮っていて一番困るのは、空の大部分が青空なのに太陽だけが雲に隠れていているという天気だ。そういう天気だと、空は明るく光っているのに、地上に光があまり届かないという状況が生まれる。そんなときは、写真の一部にでも空が入ると全体がとても暗く写ってしまう。そんな天気に出くわしたら、そのときは完全な曇りになるか、雲が太陽の前からどいてくれるのをただ待つしかない。あるいは、割り切って接写に切り替えるというのも一つの手だ。
 写真を撮っていると、普段よりも光の存在に対して敏感になるようだ。普段はあまり意識していないが、わたしたちの周りには色々な種類の光がある。蛍光灯の光、白熱灯の光、雲を通して地上に届く太陽光、太陽からの直射光、朝や晩の茜色に染まった太陽光、晴れた日の日陰に入り込む反射光、それぞれに特徴があり、被写体に微妙な陰影を与えてくれる。どんな光が当たるかによって、被写体の色は刻一刻と変化していくといってもいいくらいだ。
 そもそも、わたしたちが何かを見るということは光学現象だと言えるだろう。被写体自体は、ほとんどの場合に光を発していない。人間にしても、木々にしても、草花にしても、それ自体としては発光していないから、暗闇の中ではまったく見ることができない。どこかになんらかの光源があり、そこから発した光が人間や木々、草花に反射するときに、その反射した光がわたしたちの目に映る。木々や草花が持つ色は、光の波長の微妙な違いが作り出すものだ。どんなに美しい紅葉や花であっても、光が反射しなければただの暗闇にすぎない。それらは、光を反射するときにだけ美しい色で輝くのだ。
 人間の心にも同じことが言えるかもしれない。わたしたちの心は、それ自体として光を発していない。聖霊の光が当たったとき、わたしたちの心は輝き始める。聖霊の光が心に反射したとき、わたしたちの心は神様の栄光や美しさ、愛情、憐みなどを色とりどりに輝かせていくのだ。出会った人の心に反射した聖霊の光によって、わたしたちの心が照らされることもある。わたしたちは、神様から受けた光を反射し合うことによって互いを支え合い、教会という大きな光の芸術を作り上げていくのだろう。わたしたち一人ひとりの心が聖霊の光を受けてそれぞれの色で輝くとき、教会はそれ自体として一つのステンドグラスのように輝き始めるに違いない。







※写真の解説…森林植物園、長谷池周辺の紅葉。