入門講座(20) ゆるしの秘跡・病者の塗油

《今日の福音》ルカ19:1-10
 ザアカイが、イエスと出会って回心する場面が読まれました。この箇所で、今日は2つのことに注目したいと思います。
 一つは、ザアカイが金持だったことです。イエスの誕生を告げる天使が貧しい羊飼いたちのもとに遣わされたこと、イエス自身が貧しい馬小屋で生まれたことなどに端的に表れているように、イエスは貧しい人たちの一人として貧しい人たちのもとに遣わされました。ですが、神様は全人類を救うためにイエスをそのような姿でお遣わしになったのであって、貧しい人たちだけを救うために遣わされたのではありません。そのことが、今日の物語からよく分かります。経済的状況にかかわらず、心に飢えや渇きがある人すべてのもとにイエスは遣わされたのです。
 もう一つは、イエスと共に留まることこそがわたしたちの救いだということです。イエスがザアカイの家に泊まると告げたとき、ザアカイの心に決定的な変化が起こりました。これまで神様の方向から逸れていた自分の人生を、神様に完全に向け直す決意がザアカイの中に生れたのです。イエスと共に留まることで神様の愛を全身で感じ、人生のすべてを神様に向け直すこと、それこそがまさにわたしたち人間にとっての救いではないでしょうか。

《ゆるしの秘跡・病者の塗油》
 今回は、「ゆるしの秘跡」と「病者の塗油の秘跡」についてお話したいと思います。罪に染まった心を癒す「ゆるしの秘跡」と、罪だけでなく病からの癒しももたらす「病者の塗油の秘跡」は、ともに「いやしの秘跡」と呼ばれています。

Ⅰ.ゆるしの秘跡
1.罪とは何か?
 ゆるしの秘跡は罪からのゆるしをもたらすものですが、ではそもそも罪とはなんなのでしょうか。罪からゆるされるとはどういうことなのでしょうか。
(1)罪の定義
 現代の神学において、罪とは神様との関係性の破壊であると考えられています。神様と一つに結ばれていることこそが人間の救いであり、人間が救われることこそ神様の御旨なのですが、人間は自分中心の考え方に陥って神様との関係を自ら壊してしまうことがあります。それが罪なのです。
 自分自身を汚すような行為や自分で自分を信頼できなくなるような行為をするとき、他人を傷つけたり無視したりするとき、社会に対して害を与えるような行動をとるとき、わたしたちは自分自身、他者、そして社会との関係を破壊すると同時に、神様との関係を破壊します。なぜなら、神様の御旨は、わたしたちが自分自身を愛し、また他者を愛し、創造の秩序に従った社会を実現していくことだからです。
(2)ゆるしの定義
 その逆に、ゆるしとは神様との関係性が回復される恵みです。ゆるしの秘跡を受けることで、壊れていた自分自身や他者、そして社会との関係を回復するために必要な力がわたしたちに与えられ、神様との関係を修復することが可能になります。自分自身を愛するとき、他者を愛するとき、社会に神様の愛を実現するとき、わたしたちは破壊された自分と自分自身、自分と他者、そして自分と社会との関係を回復します。それと同時に、壊れていた神様との関係を再び取り戻す恵みにもあずかるのです。
(3)大罪と小罪
 大罪は、ゆるしの秘跡を受けなければゆるされません。では、大罪と小罪の違いはなんでしょうか。大罪とは神様との関係性を決定的に破壊するような行動であり、小罪とはそこまでには至らないけれども神様に対して申し訳ないと思うような行動だと考えたらどうかと思います。「こんなことをしてしまった以上、もはや神様に合わせる顔がない。きちんとお詫びしてゆるしていただかなければ」という思いを引き起こすような行為が大罪で、そこまでは至らないけれども申し訳ないと感じるような行為は小罪だと思ったらいいのではないでしょうか。
(4)原罪との関係
 洗礼によって原罪はなくなりますが、わたしたちの心には原罪の影響としての情欲が残り、わたしたちを罪へと誘います。情欲に負けて犯す罪を、自分がした罪という意味で自罪と呼びます。自罪はゆるしの秘跡や病者の塗油、聖体拝領(小罪のみ)などによってゆるされます。

2.なぜゆるせるのか?
 司祭はなぜ罪のゆるしを宣言することができるのでしょうか。人間が人間をゆるすのだとしたら、それは不遜なことではないでしょうか。
(1)すべてのゆるしはイエスに由来する
 ゆるしの秘跡は、人間が人間をゆるす行為ではなく、神様が人間をゆるす行為だと考えられます。イエス・キリストが受難と復活によって人類と神との関係を完全に回復してくださったからこそ、イエスから権能を受けた司祭は罪のゆるしを宣言することができるのです。ゆるしの秘跡は、イエスがわたしたちと神様との関係を回復してくださったという恵みの、目に見える確実なしるしだと言えます。
(2)弟子たちもゆるされた
 ヨハネ福音書の20章にはイエスの直弟子たちが、使徒言行録9章にはパウロが、それぞれ大罪をゆるされる場面が描かれています。直弟子たちは、殺されそうになっているイエスを見捨てて逃げたわけですから、これほどひどい神様との関係性の破壊は他に考えられないでしょう。パウロにしても、キリスト教徒たちを迫害することによってイエスとの関係性を完全に破壊しています。
 しかし、イエスは直弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と語りかけ、またパウロの目を開くことによって、彼らの罪を快くゆるしました。復活のイエスは、神様と罪深い人間のあいだの関係が完全に回復されたことを、そのような行動ではっきりと示したのです。このイエスに倣って人々に罪のゆるしを宣言することを、教会は自分たちの使命と考えるようになっていったのでしょう。

3.歴史的発展
 教会のゆるしの使命は、時代によって違う形で実行されました。
(1)公の償いの制度
 キリスト教に対して厳しい迫害があった頃には、迫害に負けてキリスト教を捨てる人がたくさんいました。その人たちの中で、あとで後悔して教会に戻りたいと望む人たちのために、初代教会では公に罪の償いをする制度を設けていました。信者たちの前で公に罪を告白し、一定期間の償いをすることによって、教会に戻ることが認められたのです。
キリスト教が公認されたあと、この制度は教会内の規律を守るための制度として発展し、より厳格なものになっていきました。公の償いのチャンスは、一生のうちに1度だけしか与えられないという習慣さえあったようです。
(2)タリフの制度
 6世紀頃、アイルランド修道院で現在のゆるしの秘跡の原型になる制度が生まれました。修道者が修道院長に罪を告白し、償いをすることで、院長を通して罪をゆるされるという制度です。この制度は、どの罪にはどんな償いということを書いた「悔悛書」というものがあったことから、タリフ(割札の意味)の制度と呼ばれます。
(3)ゆるしの新しい形式
 タリフの制度は、12世紀以降、司祭が信者にゆるしを宣言する制度として全ヨーロッパに広まっていきました。この制度には、個人的なきめ細やかな指導ができるという利点があると同時に、律法主義や個人主義、償いの取引などを生むという弊害もありました。

3.現代における実践
(1)どうやって受けるのか
 六甲教会では、主日のミサの前に告解室でゆるしの秘跡を受けることができます。だいたいミサの15分前には告解室に誰か司祭がいることになっています。そのような制度がない教会では、司祭に個人的に依頼することでゆるしの秘跡を受けられます。最近では、告解室ではなく、司祭の部屋などで司祭と対面しながらゆるしの秘跡を行うことも多くなっています。
(2)ゆるしの秘跡を受ける義務
 ゆるしの秘跡は、聖体拝領と同じで、信者にとって恵みであると同時に義務でもあります。年に一度ゆるしの秘跡を受けることは、教会法上信者の義務なのです。信者が神様から離れたままにならないようにとの配慮から、このような義務が生まれたのでしょう。
(3)共同体性の回復
 司祭と個人的に面接して行うゆるしの秘跡には、ゆるしの共同体性を見えにくくするという短所があります。わたしたちは、司祭個人からゆるしを宣言されるのではなく、教会共同体のための役務者としての司祭からゆるしを宣言されるのですが、そのことが見えにくくなるのです。そこで、ゆるしが司祭を通して教会共同体との交わりの中で宣言されるものであることを明らかにするため、第二バチカン公会議以降、共同回心式の制度が導入されました。

Ⅱ.病者の塗油
1.聖書的由来と発展
(1)聖書的由来
 病者の塗油の秘跡は、マルコ福音書6章13節の「油を塗って多くの病人を癒した」という言葉や、ヤコブ書5章の「オリーブの油を塗り、祈ってもらいなさい」という言葉に由来しています。ヤコブ書からは、癒しのために共同体が共に祈り合うことの大切さが分かります。
(2)発展
 このような形での病者に対する塗油の習慣は、死ぬ間際の人に食事を与えるというローマの文化から影響を受けた臨終の聖体拝領の儀式と結びつき、しだいに死ぬ間際の病人に対して司祭から1回だけ行われる塗油の儀式へと発展していきました。そのため、第二バチカン公会議以前には「終油の秘跡」とも呼ばれていました。
(3)現代における実践
 現代では、病のために危険な状態にある人、医師から重態だと判断された人だけでなく、危険な手術を受ける前の人、老衰のために死が近づいていると思われる人も司祭から病者の塗油を受けることができます。回数も、1回だけには限定されておらず、必要があれば何回でも受けることができます。

2.恵み
 病者の塗油によって、次のような恵みが与えられます。
(1)聖霊による救霊のための恵み…その人の魂の救いのために、聖霊から与えられる恵みです。
(2)悪霊の誘惑や死の恐怖への抵抗力…病の床にある人は、自分が神様から愛されていないのではないかとか、神様が存在しないのではないかという疑問に襲われたり、死への恐怖にさいなまれたりすることがあります。病者の塗油は、そのような誘惑や恐怖と戦う力を与えてくれます。
(3)病苦と戦う力…病気は多くの場合に苦しみを伴いますが、その苦しみと戦う力が病者の塗油によって与えられます。
(4)救霊のために必要であれば、肉体の回復…もしその人の魂の救いのために肉体の回復が必要であれば、肉体が病から回復する恵みが与えられます。どんな場合でも必ず肉体の回復の恵みが与えられるわけではありません。
(5)罪のゆるし…ゆるしの秘跡を同時に受けることができない場合には、塗油によってその人の犯したすべての罪がゆるされます。

3.病苦の意味
 病の床にある人を苦しめる最も大きな疑問の一つは、「なぜわたしがこんな目に合わなければならないのか」ということでしょう。この疑問は、自分の人生の意味への疑いや、神様の愛への疑いを生む深刻な疑問です。この疑問に対して、わたしたちはどう答えることができるのでしょうか。
 この問いに対するキリスト者の答えは、コロサイ書1章24節のパウロの言葉「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって充たす」に凝縮されています。この言葉を参照しながら、第2バチカン公会議の教会憲章は、病で苦しんでいる人たちに対して「すすんで自分をキリストの受難と死に合わせ、神の民の善に寄与する」(11)ように勧めています。教皇ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』の中で、人間は病苦などによって苦しむとき、神秘的な形でイエスの十字架上での苦しみに結ばれると述べています。
 イエスの苦しみはそれ自体として十分なものでしたが、その苦しみをイエスだけに苦しませておくのはよくありませんね。病苦を通してイエスと苦しみを共にするときに、わたしたちはイエスの受難により深く結ばれるのでしょう。イエスの受難に深く結ばれることによって、わたしたちはイエスの救いの業に協力することができ、さらにはイエスの復活にも固く結びつけられるのだと思います。
 病者の塗油は、病で苦しむ人たちに、彼らが今十字架上のイエスと共にその苦しみを苦しんでいるのだということを思い起こさせ、病苦は決して無意味なものではないと彼らに告げる秘跡だと言えるかもしれません。

《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。
・『第2バチカン公会議公文書全集』、サンパウロ、1986年。
・『カトリック儀式書 ゆるしの秘跡』、カトリック中央協議会、1978年。
・『カトリック儀式書 病者の塗油』、カトリック中央協議会、1980年。
・『使徒的書簡 サルヴィフィチ・ドローリス』、サンパウロ、1988年。